『古事記』に学ぶ先人の心意気  長谷川三千子

―― 政治の世界では「維新」という言葉を頻繁に聞くようになりました。もとより政治家が自らを維新の志士になぞらえることはよくあることです。しかし、この「維新」という言葉自体の氾濫について、長谷川氏は産経新聞「正論」欄(6月20日付)で、こうした状況の根底には「今の日本人たちは自らの根を見失つてをり、それが『内からの崩壊』をまねいてゐるといふ直観」があり、「しかし、明治維新は決してただ日本を変へたのではない。むしろ日本の本来の根をさぐりあて、その上に国家を築くことによつて、維新は成就したのである」と指摘されています。つまり、維新とは政治的熱狂ではなく、「日本の根探り」によって「維れ新た」とする運動です。
 明治維新は神武創業の古に戻ることを理念としたが、日本の究極の原点は『古事記』に記された神代です。折しも今年は『古事記』編纂1300年の節目にあたります。
 日本人の原点としての『古事記』を、我々はどう読めばよいのでしょうか。
長谷川 『古事記』というと、とにかく現在の我々からは遠く離れた物語――遠い昔に書かれ、その書かれた内容も、世界の始まりから説きおこしている、遠い昔の物語――と思ってしまう人が多いと思います。でも、決してそうではない。『古事記』に語り出された世界観は、そのままわれわれ自身の心の内にある世界観なのだ。そういう自覚をもって読むことが大切ですね。
 『古事記』に対して、そういう自覚をもってあい対した最初の人は国学者の本居宣長だったと言ってよいと思うのですが、面白いことに、現代の日本人のなかでもっとも深く忠実にそういう読み方を試みたのが丸山真男さんなのです。丸山さんと言えば、日本の悪口ばかり言っていた進歩的文化人というイメージがあって、また確かに、そういう著書も少なくないのですが、『忠誠と反逆』のなかに収められた「歴史意識の『古層』」という論文は、『古事記』の冒頭の記述を手がかりに日本人の世界観、時間観をていねいにさぐり出した好論文です。ここでは彼は、宣長の『古事記』の、全てこの世の移りゆくさまは「ことごとに此の神代の始の趣に依るものなり」という言葉を引いて、大いに賛同しています。さらに言えば、その発想そのものが現在のわれわれの思考の底を流れていると言うのです。
―― 丸山は近代西洋的視座、道具立てで日本思想を整理しようとしました。ところが、それでは把握しきれない、日本思想の底流に流れていて、折にふれて表面に浮上するものに直面し、『古事記』に取り組みました。その底流を丸山は『古層』と呼んだり、バッソ・オスティナート(執拗持続低音)と呼んだりしています。
長谷川 おっしゃる通りです。もともと丸山さんの研究の出発点は日本の政治思想の研究でしたし、近代西洋流の考え方をするインテリの一人といっても、やはり日本のものを正しく評価する能力はそなえていたということでしょうね。これから見てゆくとおり、『古事記』の創世神話は、ユダヤ・キリスト教のもつ創世神話にまさるとも劣らない哲学的な力と精密さをもっています。そのことに気付くだけでも、明治開国以来の日本のインテリの西洋コンプレックスを吹き飛ばすことができるのではないでしょうか。
 丸山さんのとった方法は、決してしち難しいものではありません。『古事記』の冒頭、別天つ神五柱と神世七代の記述を見てみると、すぐに目につくのが「成る」と「次」という言葉です。たとえば冒頭に「天地初発之時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隠したまひき」とあります。このあともずっと「次」「次」に神々の「成る」話がつづいてゆくのです。
 この一見なんでもないような表現の特色に丸山さんは注目します。次々に成る神というものをどう理解したらよいのか?――これは明らかに「創世記」の冒頭に登場する創造神とはまるで違っていますね。ユダヤ・キリスト教の神はすでに最初から存在していて、その神が一方的に命令を下して世界を創造してゆく。
 ここで、ふつうの西洋かぶれのインテリだと、だから西洋人は確固たる神の意思を宇宙の内に見ていて、かっきりとした論理と秩序にもとづく世界観を持っている。それに対して「成る神々」などという幼稚な神話しか持たないわれわれは、ちゃんとした「世界観」を持てないのだ――そんな話に流れてしまうところです。しかし、感心なことに丸山さんはそういう駄弁に陥ることなく、創世神話には一般に「作る」神話と「成る」神話と、二つの型があるのだと言います。そしてどちらがよい、悪いの話ではなく、それぞれが独自の発想をなしているのだと言うのです。

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