『靖献遺言』で固めた男・梅田雲浜  本誌編集長 坪内隆彦

皇国への思いが招いた安政の大獄
 安政五(一八五八)年九月七日、勤皇志士の巨頭、梅田雲浜は体調を崩し、京都烏丸池上ルの自宅で休んでいました。そこに、ドンドンと表戸を叩く音がしました。「誰か」と問うと、
 「町役人ですが、今先生の御門弟が、そこの町で抜刀して喧嘩をしております。私どもがいくら止めようとしても、どうにもなりませんので、先生に出てきていただいて、取り鎮めてもらいたいのですが」
 雲浜は、即座に町役人の言葉が嘘だと見ぬき、ついに補吏の手が伸びたと悟ったのです。このとき、大老・井伊直弼の指示により、伏見奉行、内藤豊後守正綱(岩村田藩主)は与力・同心以下二百人を率いて出動、雲浜を逮捕するため家を包囲していました。雲浜は、梁川星巌、頼三樹三郎、池内大学とともに、「尊攘四天王」として警戒され、弾圧の対象となったのです。
 雲浜が門人に書類の始末を命じ、悠然と立ちあがって戸を開けると、十人ほどの補吏が即座に雲浜の周囲を取り囲み、口々に、「御上意」「御上意」と叫んで、雲浜に縄を打とうとしました。
 内藤豊後守から同行を求められた雲浜は、「少々御猶予を願いたい」と言って、髪を結い直し、鬚を剃り、衣服も着替えた上で、硯を引き寄せました。そして、

  契りにしそのあらましも今はただおもひ絶えよと秋風ぞ吹く
  君が代を思ふ心の一筋に吾身ありとも思はざりけり

と二首の歌を短冊に認めました。最初の歌には、身を殺して、できる限りのことを全てやり尽くし、後は全て天命に委ねるという清々しい気持ちが詠われています。
 与力は雲浜を駕籠に乗せて連行しようとしましたが、雲浜は「すべて皇国のためになれかしと考えてした事であるから、俯仰天地に恥じる必要はない。どうかこのまま連行を願いたい」と言って、縄付のまま堂々と市中を濶歩して、西町奉行所に至りました。吉田松陰から「『靖献遺言』で固めた男」と呼ばれた梅田雲浜の人生がここに集約されています。
 『靖献遺言』は、浅見絅斎が貞享四(一六八七)年に書き上げた書物で、勤皇の志士の聖典とまで呼ばれてきました。中国の忠孝義烈の士八人(屈平・諸葛亮・陶潜・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺)の事跡と、終焉に臨んで発せられた忠魂義胆の声を収めています。
 さて、雲浜逮捕(逮捕の日時については諸説あり)によって、安政の大獄が開始されるわけですが、雲浜らの抵抗運動の直接的原因は、外圧に対して卑屈な対応に終始する幕府への強い反発にありました。
 ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊の軍艦四隻が浦賀沖に現れたのは、雲浜逮捕の五年前の嘉永六(一八五三)年六月三日のことでした。危機感を抱いた雲浜は、梁川星巖、頼三樹三郎らと日夜対策を討議するようになります。その前年の嘉永五年七月、雲浜は小浜藩主・酒井忠義に「藩政の得失と外寇防御」について上書を提出しましたが、怒りに触れて藩籍を剥奪されました。藩の束縛から自由になった雲浜は、同志を増やし、連日連夜論じ合うようになったのです。
 こうした中で、嘉永七年一月十六日、再びペリーは来航します。約一カ月にわたる協議の末、幕府は日米和親条約を締結して下田、箱館を開港しました。朝廷はこれに同意したものの、このまま推移すると国家は疲弊し、将来不安だという天皇の憂慮を伝え、「神州の瑕瑾」なきよう指揮せよと指示しました。
 軍備を充実した雄藩の力によって朝威を伸張させようと志した雲浜は、水戸や福井に遊説に赴きます。また、外国の打ち払いと、京都御所の警備を固めるために、勤皇の志篤い十津川郷士の指導訓練に乗り出します。その矢先、九月十八日にプチャーチンを乗せたロシア軍艦が突如大坂湾に現れます。雲浜は十津川郷士と共に、露艦撃攘に赴こうとします。ところが、当時妻信子は結核で病床にあり、幼い子供たち(竹と繁太郎)は飢えに泣いていました。それでも振り切って出陣する雲浜は、その胸中を詩に託しています。

  妻臥病牀児叫飢 妻は病床に臥し児は飢えに叫ぶ
  挺身直欲當戎夷 身を挺して直ちに戎夷に当らんと欲す
  今朝死別與生別 今朝死別と生別と
  唯有皇天后土知 唯皇天后土の知る有り

 これを示された信子は、雲浜を励まして送り出したと伝えられています。大東亜戦争中に雲浜の伝記を著した北島正元は、わが国の親子、兄弟、夫婦の愛情の深さを称賛しつつ、一度君国の大事に臨めばその境地は飛躍し、家族愛からさらに重要な祖国愛の中に没入し得るのだと指摘し、「我々後人は、雲浜のこの断腸の苦痛を、唯『皇天后土』のみ知つてくれよと絶叫した心を今こそ改めて玩味し、三省しなければならない」と書いています。
 ところが、雲浜らが着いた時には、すでにロシア艦は退去した後でした。雲浜が戻ってまもなく、信子の病はさらに重くなり、翌安政二年三月二日朝、「お国のために、この上ともお尽くし下さいますよう。また二人の子どもをよろしくお頼み申します」との最後の言葉を残して、儚くも二十九年の生涯を閉じました。十歳の竹と四歳の繁太郎が残されました。
 信子は十八歳の春に雲浜に嫁いで以来、十一年間、まさに赤貧洗うがごとき生活の中で、雲浜を支え、子供を愛育しました。頻繁に転居を余儀なくされ、時には大切な客をもてなすために、自分の着物を質に入れて酒肴をしつらえたともいいます。雲浜は、信子の並々ならぬ生前の苦労を思い、それ以後信子の位牌を常に携帯していました。
 不幸は続きました。安政三年二月、繁太郎もまたわずか五歳で亡くなったのです。悲惨の一語に尽きます。だが、雲浜は国事に奔走し続けます。安政三年七月には、アメリカから総領事ハリスが来日し、わが国との通商を要求してきました。同年末、雲浜は長州藩の有力者、坪井九右衛門に次のように自らの意見を開陳しました。
 「今は御存じの如く、外夷交々到って開国を強要し、皇国空前の危局に面している。幕府は外交の衝に当たっているが、事毎に外夷の武力に屈せられ、譲歩ばかりしている。朝廷の御方針はあくまで攘夷にあるのに、幕府はその御旨に背いて開国に傾こうとしている。皇国の尊巌はまさに泥土に委ねられようとしている」
 ところが、幕府は日米修好通商条約締結を進め、安政五年三月十二日には、関白・九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出します。これに攘夷派の少壮公家が抵抗、孝明天皇は条約締結反対の立場を明確にし、参内した老中・堀田正睦に対して勅許の不可を降しました。
 しかし、四月二十三日に大老に就いた彦根藩主井伊直弼は、六月十九日朝廷の勅許なしに日米修交通商条約に調印してしまいます。関税自主権がなく、治外法権を承認する不平等条約です。
 さらに幕府は、七月十四日にロシアと通商条約を締結したこと、また、イギリス・フランスなどとも締結する方針であることを、朝廷に通達してきました。しかも、将軍家定(七月六日死去)の継嗣をめぐる対立も熾烈になっていました。島津斉彬や徳川斉昭ら一橋派は一橋慶喜(徳川慶喜)を推していましたが、井伊ら南紀派は紀州藩主の徳川慶福(後の徳川家茂)を推していたのです。七月には、井伊を詰問した徳川斉昭や尾張藩主徳川慶恕が謹慎を命じられるに至ります。

以下全文は本誌12月号をご覧ください。