【書評】『近代日本の革新論とアジア主義』――クリストファー・スピルマン著

『近代日本の革新論とアジア主義』
クリストファー・スピルマン著
芦書房
二九一六円

 戦後七十年を迎え、我々は近代日本の影の部分を直視し、先人たちがどこで、どのように躓いたのかを丁寧に検証することを求められている。
 その際、アジア主義者たちの役割をどうとらえるかは極めて重要な問題である。「アジア主義者は日本帝国主義の侵略の尖兵であった」という一方的な歴史観から自由になり、アジア主義者の主張を改めて見直す必要がある。その意味で、アジア主義者の思想に焦点を当てた本書は極めて示唆に富んでいる。
 本書は、いわゆる「革新右翼」が集って一九一九年八月に設立された猶存社の思想家のうち、北一輝、大川周明、満川亀太郎、鹿子木員信を取りあげる(第一~四章)。
 これらの論稿には、最新の史料が活用されている。例えば、北一輝とイスラムの先駆的な活動家だった有賀文八郎の間で交わされた書簡などを収めた河野広中関係文書や、著者が長谷川雄一氏とともに満川亀太郎の遺族と接触した結果発掘された満川の日記、書簡などの史料である。
 著者は、これらの史料を駆使し、四人の思想家のアジア主義を浮き彫りにする。では、北や大川のアジア主義は侵略の思想だったのか。著者は次のように主張する。

 「元来、アジア主義は地域統合や協力の理念として唱えられたものであり、必ずしも日本の大陸への膨張政策を進めるためのイデオロギーではなかった。だが、猶存社の同人たちは、アジア主義者であると同時に民族主義者でもあり、また、国家主義者でもあった。彼らは例外なく、アジア解放という日本の使命を理想として掲げていた」(320頁)
 アジア主義者たちは、民族自決を目指すアジア各地の亡命者に手を貸し、朝鮮半島との関係においても、対等の合邦の理想を貫こうとしていた。そして、アジア主義者の多くは日本政府が欧米列強化していくことに抵抗していたはずである。
 著者も「猶存社が存在している間は、大陸への進出を正当化するような形でのアジア主義の主張は、大きな声にはならなかった」と書いている(320頁)。
 だが、アジア主義者たちは時代に翻弄され、「結局、猶存社同人はアジア人のためのアジア主義を棄てて、日本の国益のためのアジア主義を選んだ」(320頁)。
 こうなった理由を、著者は「アジア主義が理想論として掲げていたアジア全体の利益という考え方と日本の国益との問の深刻な矛盾」から説明する。「第一次世界大戦直後の日本においては、まだそうした矛盾は表面化しておらず、猶存社同人が提唱していたアジア主義と国家主義の間にはある種のバランスが保たれていた。…しかし、一九三一年九月に満洲事変が勃発すると、こうした状況は急変した。同人たちが唱えた国家主義に対する感情が高まり、アジア主義との間に保たれていたバランスが崩れた」
 本来、アジア主義の理想を実現するためには、日本自身の改革が必要だった。著者も指摘するように、アジア主義者たちは、アジア解放という崇高な使命を実現できるような国家になるため、政治、経済、社会などあらゆる面において抜本的な日本の改革が必要であると考えていた。それを実現できないまま、日本を取り巻く国際情勢は急速に変化していったのだ。これは評者にとっては、悲劇としか言いようがない。
 この問題を著者は、アジア主義と汎スラブ主義とを比較した第六章でも扱っている。いずれの思想の背景にも、西欧化が土着文化や伝統を破壊するという危機感があり、いずれの思想にも両面性、二重性があったと指摘する。
 〈侵略と無縁な自由主義的な汎スラブ主義に対して、一九世紀後半のロシア人によって唱えられた汎スラブ主義は、むしろロシアの侵略を促し正当化する傾向を持っていた。汎スラブ主義のこのような両面性は、日本のアジア主義にも見られる。すなわち、アジアを救おうとする「良き」アジア主義とアジアを侵略しようとする「悪しき」アジア主義が共存していたのである〉(265頁)
 本書の出発点は、著者が一九九三にエール大学大学院に提出した、平沼騏一郎と彼が設立した国本社に関する博士論文にある。本書では、これまでほとんど注目されてこなかった平沼の皇室観に焦点を当てている(第五章)。さらに著者は、平沼関係文書所蔵の岩田富美夫尋問調書を発掘し、これまで知られていなかった岩田の横顔を紹介している(付録資料)。
 西洋近代文明の限界が叫ばれるいま、過去にアジア主義者が果たした役割を客観的に評価した上で、改めてその積極的役割を考えていきたい。      (編集長 坪内隆彦)