【書評】『吉田松陰 留魂録』

 伝統は人を殺す。伝統は一つの抗し難い力なのであって、優美な鑑賞物などではない。我々の心臓に飢える血腥い生き物である。これに一身を捧げた吉田松陰の遺書が本書だ。
 松陰が斬首されるまで獄中で綴った『留魂録』は辞世の句で始まり辞世の句で終わる。曰く「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留め置かまし大和魂」「討たれたる吾をあはれと見ん人は君を崇めて夷攘へよ」……。
 あえて言えば、松陰は後世の日本人に呪いをかけたのである。「俺は国のために死ぬ。俺を哀れと思うなら、お前も俺のように国のために死ね」と。『留魂録』には「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」という孟子の一節が書かれている(78頁)。俺を哀れと見るお前の心が至誠ならば、必ず尊王攘夷に生きて死ぬはずだという声がする。呪いは何もおどろおどろしい憎悪に限らない。至誠にして至純なる呪いというものがあるのだ。
 留め置かれた魂は武蔵の野辺に浮遊しているのではない。松陰を哀れと感じた者の心にあって、尊王攘夷を急き立てるのだ。現に松下村塾の塾生は、大半が松陰の後に続いて早世している。
 「松下村塾の四天王といわれた久坂玄瑞・高杉晋作・吉田稔麿・入江九一(杉蔵)をはじめ俊足の多くが行動なかばに斃れた。それも割腹自殺八、陣没三、討死二、斬首一というのは衝撃的な事実である。指導者の強烈かつ優れた感化力が、どのようなものかを立証する恐るべき成果といえる」(9頁)。
 だが忘れてはならないのは、そもそも松陰自身が呪われ、それを引き受けていたということだ。「ただ七生までも同じ人間に生れて、朝敵を亡ぼさばや」と、からからと笑って自刃した楠正成・正季兄弟に呪われたからこそ、松陰もまた「七度も生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾忘れめや」という辞世の句を残したに違いない。「死友に負かず」(照顔録)と書いた松陰は、死友に呪われ、死友として呪ったのである。
 崎門の学統を継ぐ近藤啓吾氏はこれを「皇統無窮、万世一系とは、本然の事実にあらずして、当為の努力である。…たゞこれは、絶ゆることなき努力の継承によつてのみ、現実たらしめ得る。しかもこの当為の努力が、肇国以来一貫せられて来たところに、わが国の道義の本質を見る」と述べている。葦津珍彦はこれを「永遠の維新」と言ったのだろう。
 伝統とは、先人の心臓を数珠つなぎにした御統なのである。この御統を断絶させたくないならば、たった今鼓動している自分の心臓を捧げるしかない。小林秀雄は「伝統は、これを日に新たに救い出さなければ、ないものなのである」と言った。伝統の火は常に消えかけている。その火を絶やしたくないならば、我が身を燃べるほかない。燃べなければ伝統は存在しない。
 だから三島由紀夫は「特攻隊員は『あとにつづく者あるを信ず』という遺書をのこした。……『あとにつづく者』とは、これも亦、自らを最後の者と思い定めた行動者に他ならぬ……有効性は問題ではない」「われわれは日本の美の伝統を体現する者である」と言って我が身を燃べたのだろう。それは業火か聖火か。
 ここに至っては、もはや無駄死などというものは存在しない。暴露する必要のない老中襲撃計画を吐露して斬首された松陰も、敵艦に命中せず海面に突っ込んだ特攻隊も、クーデターに失敗した三島由紀夫も、戦果がないという意味で無駄死だ。しかし、伝統を継いだ死者は必ず思い出され、日本民族の中で永遠に生き続ける。御統に連なった心臓は鼓動し続ける。不死鳥は灰の中から黄泉返って燃え続ける。三島が「限りある命ならば永遠に生きたい」と書き置いた所以だろう。
 呪われた人間は、もはや死者に課された存在であるから、そこから逃げることはできない。だが、いかに死ぬかという問いは、即ち、いかに生きるかという問いに他ならない。伝統は我々を死に駆り立てもするが、生にも駆り立てるのだ。
 ここに思い当った時、死ねという呪いは生きろという祈りに転じる。いや、生きろという呪いもあれば、死ねという祈りもあるだろう。呪いは祈りだ、祈りは呪いだ。どちらでもいい。至誠の人はただ伝統に殉じるだけだ。それで生きるか死ぬか、いや何時死ぬかはあずかり知らぬ。それを決めるのは時の運だ。「吾れ此の回素より生を謀らず、又死を必せず。唯だ誠の通塞を以て天命の自然に委したるなり」(94頁)。
 我が国の歴史は世界最長だという。我々に課せられた祈りは世界で最も重いということだ。我々は祈られた自己である。祈られた自己をどうするかは、全く個々人の人生の問題である。(編集委員 杉原悠人)