警察庁および警視庁は昨年より「PC遠隔操作事件」解決に異常なほどの執念を燃やしており、事件は新たな局面を迎えているようだが、警察がこの件に関して酷い冤罪事件を引き起こしたことに関しては、忘却の底へ沈めてしまいたいようだ。
警察・検察の文学的力量は見事なもので、後に冤罪と判明した大学生の自白調書には「就職試験に落ちたので、むしゃくしゃしていた。不採用の知らせを受けた当日にやった」「楽しそうな小学生を見て、自分にはない生き生きさがあり、困らせてやろうと思った」と、実に真に迫る心理描写がなされ、こんな調書を読めば誰だって有罪と確信するに違いない。警察官、検察官出身の小説家がもっとたくさんいてもよさそうなものだが、どうしたわけかその創造的才能が文学に生かされていないのは社会的文化的損失であろう。
1988年7月19日、レオナルド・マリーノという男がアメリアの憲兵隊駐屯所に出頭してきて、16年前、イタリア左翼運動全盛期、カラブレーシ警視殺害に関わったことを「良心の呵責に耐えかねて」告白した。マリーノによって主犯として名指しされた人間こそアドリアーノ・ソフリ、著者の友人であった。
中世の魔女裁判の研究者である著者ギンズブルグは丹念に友人の裁判記録を追い、そこにいくつもの矛盾と論理の飛躍を見出す。マリーノの供述は二転三転しており、にもかかわらず、裁判所は互いに矛盾する証言を証拠として採用し、ソフリを有罪へと追い込もうとする。
警察官を殺した極悪人がおり、それは必ず贖われなければならない、そしてその役目は、実際には無実だろうが冤罪であろうが、ソフリに割り当てられたのである。なぜなら、ソフリは確かに左翼運動に従事しており、反政府活動も行なっており、いけにえの子羊として十分な資格を備えていたからだ。こいつでいい、こいつを殺せ。それで解決だ。
いくら弁護側がマリーノ証言のおかしさ、そもそもその取り調べ状況の異常さを指摘しても、裁判官は「まあ15年前のことだから、少しぐらい記憶違いはあるさ、だって人間だもの」と却下する。その一方、ソフリに不利な証言は、それを裏付ける証拠に乏しくとも、「状況から察して、そういうことがあったと信ずるに足る蓋然性がある」と採用していく。
繰り返すが、これは現代日本の事件ではなく、1988年、イタリアで起きた事例である。そしてその様子は著者が研究する魔女裁判と同じ様相を呈していた。歴史は時空を越えて繰り返されるのである。
「悪魔学の文献は、もし魔女と推定される者が告白すればそれは有罪、拷問にもかかわらず黙っていれば、それは妖術(口つぐみの魔法)のせい、もし否定するならば、そのときにはあらゆる嘘の父である悪魔にかどわかされて嘘をついているのだ、と教えていた。こうした論法は、有罪か無罪かを証明しようとするものではなく、あらかじめ有罪か無罪かを決めてかかったものであった」(146頁)
事件を追う中で、著者ギンズブルグは、自らの専門である歴史学と裁判の原理に、相違点を見出す。似ている点とは、どちらも資料(証拠)を解読し、分析するということ。異なる点は、歴史家にとって資料(証拠)は動かしがたいものだが、裁判官にとって資料(証拠・証言)は警察・検察によって生産され、好き勝手に取捨選択できるもの、ということだ。
歴史家は資料の間に想像力を働かせる。「古事記」が編纂された背景には大和朝廷の正統性を確立させる意図があったのではないか、というように。だが裁判官は歴史家のように想像力を働かせ、「推認」してはならない。裁判官は歴史家ではないからだ。たとえば、「明示的にせよ黙示的にせよ、石川、大久保両被告が意思を通じていたことが強く推認され」などという豊かな想像力は裁判に持ち込まれてはならず、現代の松本清張目指して小説の世界で発揮すべき才能である。
一義的には本書は著者が友人の弁護のために著したものだが、歴史と裁判の相違を考えていく中で、著者はこのようなことを言う。
「歴史家を裁判官に還元しようとする者は、歴史叙述的認識を単純化し貧困化してしまうことになる。が、しかしまた裁判官を歴史家に還元しようとする者は、正義審判権の行使を取り返しがつかないほど損なってしまっているのだ」(166頁)
【書評】 裁判官と歴史家
(副編集長 尾崎秀英)