アベノミクスによる金融緩和はスタグフレーションを招き、TPP参加は経済格差をさらに拡大させるだろう。また、中国経済のバブル崩壊は、日本だけでなく世界全体にリーマンショック以上の衝撃を与える可能性がある。日本経済は今後さらに悪化し、社会を覆う閉塞感はますます強くなっていくだろう。
社会が閉塞状況に陥ると、人は得てして宗教を求めるものである。日本では既にその兆候が表れている。伊勢神宮や出雲大社などは「パワースポット」と呼ばれ、訪問する人が急増している。オウム真理教の後継団体であるアレフの信者数も増加しているらしい。その他の新興宗教も同様であろう。
確かに、宗教を信じることで、現実社会では手に入らなかった安らぎが得られる場合もあるだろう。その意味で、宗教を信じるという行為には、現実社会に対する批判という意味合いも含まれている。現実社会に批判的だからこそ、宗教に走るのだ。マルクスはこう言っている。「宗教上の悲惨は、現実的な悲惨の表現でもあるし、現実的な悲惨にたいする抗議でもある。宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である」(本書72頁)。
これが有名な「宗教は阿片」の出典である。これを読めば、マルクスが宗教そのものを非難しているわけではないことがわかる。マルクスは続けてこう言っている。「民衆の幻想的な幸福である宗教を揚棄することは、民衆の現実的な幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてもつ幻想を棄てるよう要求することは、それらの幻想を必要とするような状態を棄てるよう要求することである」(同前)。
これらは一般的に、幻想的な(宗教上の)幸福に囚われている限り、現実的な幸福はやって来ない、といった解釈をされている。たとえば、『しんぶん赤旗』(2010年7月15日)はこれについて、「アヘンという言葉には、宗教に対するマルクスの批判もこめられています。宗教は民衆にあきらめとなぐさめを説き、現実の不幸を改革するために立ち上がるのを妨げている、という意味です」と論じている。
しかし、後年の『資本論』を知る我々としては、ここで留まるべきではない。さらにもう一歩踏み込む必要がある。
マルクスの「宗教は阿片」という言葉は、単に宗教に逃げず現実と向き合え、といったことではなく、資本主義の問題を宗教によって解決することはできない、と解釈すべきである。たとえ宗教を信じようとも、世の中は相も変わらず資本主義に基づいて動いており、そして宗教を信じている人たちも、資本主義の原理に則ってお金を稼がなければ生きてゆくことはできない。
なぜ宗教によって資本主義の問題を解決することができないのか。それは、資本主義と宗教がそもそも位相の異なるものであるからだ。(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』については別の機会に論じる)。位相の異なるものの間の議論は決してかみ合うことはない。それゆえ、宗教によって資本主義を乗り越えようとする試みは、常に徒労に終わってしまうのである。
だから宗教には価値がないということではない。資本主義の問題を解決する上ではあまり役に立たないというだけのことである。
日本人の多くは「宗教」という言葉を聞いたとき、キリスト教やイスラム教を思い浮かべるだろう。しかし、ここには当然神道や仏教、儒教も含まれる。それだけでなく、倫理や道徳、さらには文明力や文化の力なども含まれるだろう。
繰り返すが、日本の文明力が劣っているから資本主義に対抗できないということではない。位相が異なっていることに原因があるのだ。構造的な問題を倫理的な方法によって解決することはできない。たとえ竹槍でB29を落とすことができたとしても、気合いと根性で資本主義を超克することは不可能である。
我々はしばしば物事の位相を取り違えてしまうものである。たとえば、原因を追究しているつもりが、いつの間にか責任を追及していたり、対象を分析しているつもりが、いつの間にか価値判断を下している、といったことはままある。
しかし位相を取り違えている限り、その議論は空虚なものとなってしまう。資本主義によって生じた問題は、資本主義の論理から必然的に導かれたものであり、それ以外の何ものにもよらない。それに対処するためには、何よりもまず資本主義の論理をしっかりと掴まなければならない。
そして、その論理を最も的確に抉り出したのが、マルクスの『資本論』なのである。資本主義が続く限り、『資本論』が色褪せることはない。我々は今こそマルクスを読み返さなければならない。
【書評】 ヘーゲル法哲学批判序説
(編集委員 中村友哉)