【書評】『政治的ロマン主義』

 現実世界に失望し、あるいは挫折した人々は、往々にして仮想世界に向かう。かつて自由民権運動に挫折した人々は文学に助けを求めた。今日において社会に不満を持つ人々はインターネットの世界に没入している。
 これは過去に理想を求める人々についても言えることである。現実世界に失望しているからこそ、過去に「真の日本」や「真の日本人」、あるいは「真の保守」なるものを見出そうとするのである。
 このような思考回路はロマン主義と呼ぶことができよう。本書の著者であるカール・シュミットによれば、ロマン主義の特徴は機会原因論的な構造にあるという。
 機会原因論とは、「神のうちに真の原因のすべてを見、この世のすべての事象を単に偶然的な機因である」とするものである(本書107頁)。そこでは神のみが「真の実在」であり、現実の諸事物はその一要素に過ぎないとされる。
 この考えを敷衍すれば、「真の実在」は「今ここ」にではなく、「どこか他の所」、「いつか他の時」に存在することになる(115頁)。過去(いつか他の時)が理想化されるのはそのためである。
 機会原因論はまた、現実の諸事物は全て「真の実在」によって操られているという考えを導く。たとえば、ある人がペンを動かす時、それは神によってペンを動かされ、手を動かされたことになる(108頁)。
 ここから陰謀論との親和性を読み取ることは困難ではない。実際、ドイツでロマン主義が力を持った時代には陰謀論が流行しており、イエズス会や光明派(イルミナティ)、フリーメイソンなどによる陰謀が信じられていた(98頁)。
 それらはロマン派の小説の題材としても取り上げられていた。たとえば、ドイツロマン派を代表する作家であるティークの小説には、他者を自分の意志や陰謀の道具とする人物たちが登場する。彼らは「全体の背後に隠れた偉大な道具方」であり、人物を操る糸を手にしているとされた(99頁)。
 その影響は当時の哲学にも見られる。たとえば、シェリングは「個人の自由の上には意識されぬ高次の必然性が漂っており、個人の意識的な意志を超える歴史は必然的に実現する」と考えた。また、ルーデンは「人間、民族、世代は生命の精神が必要とする不可欠の道具にほかならず、この精神はこれらのものにおいて、またこれらのものを通じて時間の中で自己を顕す」と考えた(100頁)。
 陰謀論が流行しているのは今日の日本においても同様である。陰謀論者によると、世界はイルミナティやフリーメイソン、あるいはユダヤ金融資本によって牛耳られているという。
 陰謀論の問題点は、能動性、主体性の欠如にある。もし仮に世界がユダヤ金融資本の思いのままに動かされているとするならば、一個人や一国家がそのような強大な力に対抗することは不可能である。何らかの方法で対抗できるのであれば、その程度の力しかない彼らに世界を牛耳ることなどそもそも不可能であろう。
 つまり、ユダヤ陰謀論が成立するためには、彼らの力が一個人、一国家の力を大幅に上回っている必要があるが、そうなると彼らの陰謀に対抗することは不可能になり、彼らが自滅してくれることを待望するか、せいぜい世の中に毒づくことくらいしかできなくなる。こうして陰謀論者たちは結果として現状に追従する以外に為す術がなくなってしまうのである。
 これはロマン主義から導かれる当然の帰結である。世界が「真の実在」によって操られており、その他のものはその一要素に過ぎない以上、彼らの態度が受動的になるのは避けられない。
 日本社会が力を取り戻すためには、このロマン主義との決別が必要である。詩や文学によって政治に対抗することはできないし、「どこか他の所」に世界を操る組織など存在せず、「いつか他の時」を探しても「真の日本」は見つからない。もし仮に現在の日本が醜く嘆かわしい存在であるならば、あえて言うなら、その醜く嘆かわしい日本こそが「真の日本」なのだ。
 政治を改善することができるのは政治的行動だけである。シュミットは「政治的活動がはじまるところで政治的ロマン主義は終る」と述べている(202頁)。ロマン主義から脱却した時に初めて、能動的な政治的行動が始まるのだ。(編集委員 中村友哉)