【書評】 HHhH プラハ、1942年

 味気ない歴史資料の山の中から、ある人間の人物像を浮かび上がらせるには根気と洞察力がいる。なかなかそんな時間を持てない人のためには、手軽に読める歴史小説というものがある。歴史小説作家がわれわれに代わって資料を読み込み、資料の行間に想像力を駆使して、あたかも目の前に生きているかのように歴史的人物を動かしてくれるのだ。
 だが当たり前だが、それはその作家の解釈を経た人物像にすぎないし、下手をすると、作家が死者を自由気ままに動かしているだけの可能性もある。歴史小説は娯楽としては面白いが、それをもって歴史を学んだとはいえないのはこのためである。
 坂本龍馬は国民的ヒーローとなっているが、それは司馬遼太郎が『竜馬がゆく』を書いてからだ。幕末から明治へという激動の時代、泣き虫の少年が豪快な、壮大なビジョンを持つ志士へと成長し、日本の夜明けを作ってゆくというストーリーは爽快だ。おかげで、選挙のたびに全国で「われこそは平成の竜馬」を名乗る人が出てくるようになった。司馬遼太郎本人は、これは私が描いた人物だという思いを込めて「龍馬」ではなく簡体字の「竜馬」としたという。しかし、今や歴史的人物としての龍馬はフィクションの竜馬に取って代わられたと言っていいだろう。それは、われわれは坂本龍馬という人物の実像に近づきがたくなっているということでもある。歴史小説の功罪はここにある。うまく書けていればいるほど、読者は歴史からかけ離れてしまう。
 本書は、1942年、プラハで起きたハイドリヒ暗殺事件をめぐる歴史小説めいたものである。ハイドリヒは「ユダヤ人問題の最終的解決」の指揮をとり、「金髪の野獣」と恐れられたナチス高官である。ナチス・ドイツがチェコを占領するとハイドリヒはその総督として赴任した。これに危機を感じたイギリス首相チャーチル、そしてロンドンにあった亡命チェコ政府は、ハイドリヒ暗殺計画を立てる。深夜、プラハ近郊の村にパラシュートで降下した暗殺部隊約10名、その中にチェコ人のクビシュ、スロヴァキア人のガプチークがいた。奇しくも、のちに一つの国と成る二つの民族出身の青年がこの作戦に関わっていたのだ。
 物語は、ハイドリヒ、イギリス、チェコ政府、そしてクビシュ、ガプチークら暗殺団を中心に進んでゆく――いや、この言い方は正確ではない。物語は進むのではなく、目の前で文字通り組み上げられてゆく。小説の主人公はクビシュでもガプチークでもハイドリヒでもなく、ローラン・ビネ、著者本人である。著者は伝説や伝聞がまぎれこんだ膨大な資料を検討しながら、時には映画や小説などの創作物さえ参考にしながら、歴史上の人物たちの実像に迫ろうとする。小説で語られているのは、著者のその作業なのだ。つまり、歴史小説を書くということに関しての小説となっている。読者は、歴史小説が描かれていく様子を目の前で目撃することになる。
 小説が進むに連れ、やがて著者ビネの意識は、逃走し、プラハの教会地下にたてこもるガプチークの意識に同化していく。
 ハイドリヒを暗殺されたナチスは報復のため、暗殺部隊をかくまったとされるリディツェ村の村人を虐殺し、下手人ガプチークらを水攻めにする。
「本当のところ、僕はこの物語を終えたくはないのだ。できれば、納骨堂の四人の男たちが、けっしてあきらめず、トンネルを掘り進めようと決心した、その瞬間に永遠に留まっていたいのだ」(本書367頁)
 著者ビネはあまりにも強くガプチークらに同化したため、その最後の悲劇を書く筆致も痛々しくなるほどだ。
「クビシュは死んだ。そう書かなければならないことが悔しい。彼のことをもっとよく知りたかった。助けてやりたかった。いくつかの証言をまとめると、回廊の先にははめ殺しになったドアがあって、それをこじ開ければ三人とも隣の建物に逃げのびることができたはずだという。なぜそうしなかったのか! 〈歴史〉だけが真の必然だ。どんな方向からでも読めるけれど、書きなおすことはできない」(364頁)
 本書は広い意味では歴史小説だが、それ以上に、歴史に向き合った人間の精神をめぐるドラマとして、非常に高い完成度に達している。世界に翻訳され、数十万部が売れているのも納得できる傑作である。

(副編集長 尾崎秀英)