【書評】 満川亀太郎書簡集

 昭和七年の五・一五事件で三上卓らとともに決起した古賀清志は、翌八年三月十日、横須賀海軍刑務所における訊問調書で決起に至る自らの思想形成過程を次のように語った。
 海軍兵学校第三学年の時、同じ佐賀中学を卒業した藤井斉から白色人種の横暴を説明され、将来日本が盟主となって亜細亜民族の大同団結を図り、白色人種と有色人種を対等にしなければならないという「大亜細亜主義」の説明を聞き、その実現のためには日本国家の改造を要すると力説された。そして、大正四年冬の休暇中に、藤井の勧めで東京市内宮城旧本丸内にあった「大学寮」に起居し、満川亀太郎、大川周明、安岡正篤らに会い、現代日本の行き詰まった情勢を聴いた。
 大正八年に維新と興亜を目指す「猶存社」が設立され、大川と満川は北一輝とともに「猶存社」三尊と呼ばれるようになった。彼らは大正十三年以降、「行地社」を拠点に活発な維新運動を展開していくが、本書には北、大川の書簡も多数収められており、北、大川、満川三者の関係の変遷も読み取ることができる。
 「大亜細亜主義実現のための国家改造」という満川ら興亜思想家の考え方が古賀清志らに与えていた影響の大きさを、本書に収められた書簡は如実に物語る。例えば、昭和二年一月十二日に古賀が満川に宛てて書いた書簡には、次のように書かれていた。
 「多難であった大正の御代も去り新しく昭和の御代となりました。私等道に志す者の為すべき御代ではないでせうか。建実なる日本と亜細亜の確立、道義の世界。私はいつもあせりがちでいけません。事を為す迄には其だけの否より以上の基礎が必要ですが、其迄の修養や努力は一般の人とは大差がなければならないと思ひます。私も出来るだけ識見と謄力を養ふべく努力してゐます」(102、103頁)
 編者のクリストファー・スピルマン博士が指摘しているように、古賀の書簡には「我等も時と場所とにより悪に対して天誄を加へることもあります」とも書かれており、国家改造のためにはテロも辞さないという覚悟が、五・一五事件の五年前から芽生えていたことを窺わせる。
 本書はまた、満川と二・二六事件に連座した菅波三郎との緊密な関係を浮き彫りにする。菅波の満川宛て書簡(昭和二年五月二十日)には、「革命の渦心なる東都の一新社が蹶起する時、大局を明察して蹶起する段取になるかも知れません。若しその時は先生等の命令一下に動きます」と書かれている(129頁)。
 ここにある「一新社」とは、行地社分裂後、満川が昭和二年に設立した維新団体であり、この書簡には維新派内での満川の位置づけが明確に示されている。
 さらに本書には、二・二六事件に連座して処刑された西田税が満川に宛てた書簡が数多く収録されているが、それらの書簡からは、西田にとって満川が、「優しく、信頼できる兄のような存在」であったことが読み取れる。
 編者の今津敏晃氏が詳しく解説している通り、本書には建築史の研究者として知られる能勢丑三の満川宛て書簡も収められていて、そこからは満川の「コスモポリタン的アジア主義」が暗示される。能勢は大正二年七月に京都高等工芸学校図案科を卒業、建築事務所勤務を経て、大正十二年末に京都帝国大学助手(工学部建築学教室)に就いた。朝鮮での調査・研究の成果として、「遠願寺の塔と十二支神像について」、「朝鮮に於ける獣首人身像にて表せる十二支方位神の資料蒐集の概要」などを発表している。大正九年七月八日付書簡で、能勢は次のように興味深いことを書いている。
 「此の大鵬は即ち〔カルラ鳥〕を指す也。金翅鳥品には文学守護神たる(文殊菩薩)の化身と称しています。(中略)勿論之の面は大陸より齎らした面です。而して我国皇家の式事に用せられます。如何に我国が過去に於てコスモポリタンなりしかを知る事が出来ます。国粋と称せらるるものの(ねた)は大概コーナものです。小生は我国力の過去に於て大陸迄で伸びて交渉があった事を単に芸術の上から帰納しても我国民性の最も特長は之のコスモポリタンな処だろうと存じます」(200頁)
 今津氏は「この書簡に見られる能勢の考え方は天平文化の国際色の豊かさを踏まえてのものであるが、そのために日本文化称揚という国粋主義的な側面と国際性を両立させる視角を能勢に与えることになった。この点についてアジア主義的ながらもコスモポリタニズムへも開かれた満川の思想とのつながりを指摘できるだろう」と書いている(348頁)
 昭和維新運動、興亜運動における思想家の役割はいかなるものだったのか、そして彼らは何を目指していたのかを、いま改めて検証するために、本書は『満川亀太郎日記』など本書編者らによる一連の刊行物と併せて、貴重な材料を提供してくれる。

(編集長 坪内隆彦)