【書評】『社会的共通資本』

 7月にハワイで開かれたTPP交渉が決裂し、その合意がかなり遠のいた。本書を著した宇沢弘文氏も、あの世で一安心しているのかもしれない。宇沢氏は、2011年3月に体調を崩してからもわが身に鞭打って、TPP反対運動の先頭に立ち、昨年9月に亡くなる日まで、強い危機感を抱き続けていたからだ。
 若くしてアメリカに渡った宇沢氏は、1964年に新自由主義経済思想の牙城シカゴ大学経済学部の教授に就いた。しかし、ベトナム戦争に深入りするアメリカに反発して68年に日本に帰国、環境問題に傾倒しつつ新自由主義との決別を果たす。本書は、72年に発表した「社会的共通資本の理論的分析」などの論文を再構成してまとめたものである。
 宇沢氏が言う「社会的共通資本」とは、「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」(4頁)のことだ。宇沢氏は、自然環境、社会的インフラ、制度資本の三つに分けて、社会的共通資本を具体的に挙げている。
 自然環境は「大気、水、森林、河川、湖沼、海洋、沿岸湿地帯、土壌など」、社会的インフラは「道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなど」、制度資本は「教育、医療、金融、司法、行政など」だ。
 市場原理万能の経済政策によって、いま社会的共通資本が脅かされるようになっているのはなぜなのか。宇沢氏は、本書で30年代の大恐慌を契機として起きた「経済学の第一の危機」を救ったはずのケインズ経済学がその有用性を失った過程を説明した上で、70年代以降に強まった反ケインズ経済学について次のように書いている。
 「反ケインズ経済学は必然的に、政府の経済的機能にかんしてきわめて制約的な性格を求めることになった。すなわち、希少資源の所有形態、生産主体にかんしてもっぱら私的な性格を求め、政府ないし公共部門の果たす機能をできるだけせまく限定して、自由な分権的な配分機構の果たす範囲をできるだけ広く拡大しようという政策的な意図をもつことになったのである」(42頁)
 80年代以降、反ケインズ経済学は実際の経済政策として導入されるようになった。アメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権、日本の中曽根政権などが代表例だ。そして、わが国では小泉政権以来、新自由主義路線が加速し、社会的共通資本が破壊されようとしている。
 いまや、農業、医療や水道などの公共サービス、さらには教育などへの市場原理導入や民営化が進められている。TPPが結ばれれば、あらゆる社会的共通資本の市場化が強行されることになるだろう。
 では、社会的共通資本をいかにして防衛すればよいのか。宇沢氏は、「社会的共通資本は、それぞれの分野における職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって管理、運営されるものであるということである。社会的共通資本の管理、運営は決して、政府によって規定された基準ないしはルール、あるいは市場的基準にしたがっておこなわれるものではない」(22頁)と説いている。
 さらに宇沢氏は、「社会的共通資本の管理、運営は、フィデュシアリー(fiduciary)の原則にもとづいて、信託されている」と書いている。「フィデュシアリー」とは「信任」という意味であり、社会的共通資本の管理、運営を信任された者は、責任を持ってそれを遂行しなければならないということである。
 戦前まで皇道経済論として提唱されていた日本独自の経済思想には、万物を神の恵みととらえ、それを社会全体の共有資産として活用するという発想があった。だからこそ、特定の人間による共有資産の独占を許してはならず、恣意的にそれを管理、運営することも許してはならないという発想を持っていた。例えば、会沢正志斎は『新論』(1825年)で次のように書いていた。
 「古者、天子、嘉穀を天神に受け、以て民物を生養したまふ。その富なるものはすなはち天地の富に因るなり。後世に至りては、すなはち天下の富、稍稍に分散し、一転して武人に移り、また転じて市人に帰して、天下その弊を受くる」
 私たちは、社会的共通資本の略奪を目論むグローバル企業が先導するTPPの息の根を止めなければならない。そのためには未だにTPPを支持している「保守派」の覚醒が求められている。
 だからこそ、社会的共通資本を防衛しなければならないという意識を、日本独自の経済思想の面からも強化する必要があるのではなかろうか。(編集長 坪内隆彦)