タイトルの「グリーンファーザーの青春譜」から、この一冊に何が記されているのか、想像が及ばない。表紙のジャングル上空を通過する戦闘機、戦闘帽の軍人の写真、目次に列記される項目から、戦記とわかる。
その戦記が「グリーンファーザー」となっていることに不思議感を抱く。しかし、著者は復員後、インドのネルー首相の要請を受け、インドの緑化を成し遂げた人だった。インド独立の父はガンジーだが、インドの緑の父は杉山龍丸。ゆえに、インドでは「グリーンファーザー」と尊崇の意味を込めて呼ばれる。
そのインド緑化の資金は、杉山農園を売却したもの。農園は著者の祖父になる杉山茂丸が資金を用立てし、その長男の作家夢野久作こと杉山直樹が管理していた畑地だった。杉山茂丸は明治大正の政界のフィクサーと呼ばれた。農園は、杉山家の口伝として、子孫のためではなく、全てをアジアのために使えと厳命されていた。
今は欧米の植民地でも、いつか、アジアの国々が独立した時のために、一切合財を投じることになっていた。その教えに従い、不毛のインドの大地を緑に変えたのが著者の杉山龍丸だった。
龍丸は、祖父茂丸、父夢野久作を早くに亡くした。陸軍士官学校に進み、日本陸軍初の戦闘機隊の整備将校となった。
本書は、大東亜戦争の終盤、満洲にあった隼戦闘機隊がフィリッピン戦線に移動する場面から始まる。福岡の門司港から兵員、物資、従軍看護婦らを乗せて輸送船は出航する。通常の5倍近い積載量となった輸送船でフィリッピンを目指したことに驚く。輸送船が米軍潜水艦の餌食となり、戦地に着く前に撃沈された戦記はよく目にする。輸送船は船足が遅いからと思っていたが、積荷が多すぎた結果だった。
著者の搭乗する輸送船もフィリッピンを目前にして撃沈される。漂流の末、海軍に救助される様は、芥川龍之介の『クモの糸』を彷彿とさせる。生命からがら上陸してみれば、現地の司令本部は最前線とは思えぬ余裕。しかし、それもつかの間、日本陸軍の指令部、参謀たちの航空戦に対する知識が皆無であることに著者は驚愕する。戦争開始直後から敗戦を予期していた著者だったが、近代戦の象徴である戦闘機による航空戦術を知らない陸軍に悲嘆が倍加する。
先の大戦に対して、大所高所から敗戦の原因を述べる書籍は多い。しかしながら、本書は、戦闘現場で航空戦を体験した人の体験記であり、兵站の重要性を指摘していることに意味がある。
日米戦争は物量で負けたと論じるのは簡単。しかし、それ以前に、植民地軍は撃破できても、本隊がいかなる戦略、戦術で向かってくるのかを想定できていなかった。大本営、戦争指導者の責任は大きい。その責任回避ともいえる急場しのぎが、「特攻」という人間ミサイルの出現となる。「特攻」で散華された方を弔うのは当然だが、戦争指導者の無知を暴くべきではないか。司令官が一升瓶をぶら下げて、出撃前の特攻隊員を激励するなど、無責任、無知をさらけ出しているとしか言いようがない。
本書のサブタイトルにある「ファントムと呼ばれた士たち」とは、いかなる意味なのか。補給路を断たれた前線で、著者は廃棄された隼戦闘機を回収し、つぎはぎだらけながらも戦闘機として飛ばす。撃墜される。また、廃棄された戦闘機をかき集めて飛ばす。その繰り返し。撃滅したはずの隼戦闘機が、出現する。ついに、米軍は「幻の戦闘機(ファントム)」と呼んだ。重苦しい言葉が続く本書の中で、唯一、溜飲が下がる場面。
従来、隼戦闘機の戦記は空中戦をパイロットが語るものが主となる。しかし、この一書は整備将校の記録として極めて珍しい。
戦闘機は空中にあって機能を発揮するが、地上においては単なるガソリンタンクという表現は言い得て妙。その隼戦闘機を整備する部隊を運用するにあたり、どれほどの工具、スペアの部品が必要なのかは想像を超えている。はたして、大本営も前線司令官も、戦闘機を飛ばすにあたっての後方支援がいかほどなのか、理解できていなかったことが文中に何か所も出てくる。
タイトルは「青春譜」ながら、甘い追憶に浸った内容ではない。それは、戦死した部下の氏名階級が列記されていることから容易に想像がつく。
「民を親にす」を家訓とする杉山家の生き様から、先の大戦とは何であったか、本書から読み取っていただきたい。(編集委員 浦辺 登)