【書評】 三獄誌 府中刑務所獄想録

 人間の運命というものはどこでどう転がるかはわからないもので、少し魔が差しただけで、人生は容易に泥沼へ落ちていく。善良なサラリーマンだったのが、ふとギャンブルにのめり込んだばかりに一家離散、食い詰めて強盗をするなどということもあるし、霞ヶ関の高級官僚が刑務所に落ちるのもよく見かける事例である。
 世の中には根っからの悪人というのもいるが、善良だと思い込んでいるわれわれも運命の悪戯で、いつ塀の向こう側に行く羽目になるかはわからない(世の中には冤罪というものもあるのだ)。だから、刑務所の中の話を事前に知っておくことは、運命の恐ろしさを知る人間の教養というべきものだろう。
 本書の著者は三十代のほとんどを、「地獄」と呼ばれる府中刑務所で過ごした。罪状は麻薬取締法違反と殺人未遂で、八年の懲役を満期まで務めた。
 通常、「初犯」(初めての刑務所という意味で使われるらしい)の場合には黒羽や静岡など、「初犯」囚が多く服役する施設に収容されるのだが、著者の場合は「看板を背負って」(仁侠団体に所属して)いたこともあり、犯罪性向が強いと見なされ、「初犯」ながらも、「再犯」囚の多く服役する、天下に名高い府中刑務所に移送される。
 本書は未決囚から既決囚となり、府中刑務所に移送され、そしてそこで過ごした日々を、数多くのエピソードで綴った獄中体験記である。
 チョコパイ一つをめぐって大の大人が争う様子や、コーヒーを数年飲んでいないため、運動会で出された烏龍茶に含まれるカフェインだけで、目がランランと輝いて興奮してしまう囚人の様子など、一つ一つのエピソードは面白く描かれている。だがもちろん、自分もこんな経験をしてみたいなどと思う体験ではないが。
 短いエピソードが連ねられつつ、その中から二つのテーマが浮かび上がってくる。一つは、法を犯した罪は認めつつ、自分の信念は貫くという一貫した姿勢である。著者は北海道の原野を開拓して大麻栽培を行ったのだが、その罪は認め、若気の至りとして反省して刑に服すが、「謳う」(関係者について自白する)ことは決してしなかった。自分の罪は自分一人が背負い、償うべきであって、他の人に迷惑をかける事は、法ではなく、著者の信念に反するのだ。
 人間には守るべきものが二つあり、「法」と「信念(あるいは道)」なのだが、時にそれがぶつかることもある。
 著者は、教誨師として訪れた禅僧から次のような話を聞く。ある僧侶と弟子が旅をしていた所、深い水たまりで立ち往生していた女性がいた。僧はその女性を背負って水たまりを渡った。弟子が「女性に触れてはいけない“法”ではないのですか?」と尋ねると、「お前はまだそんなものを抱えているのか。これが仏の“道”だ」と答える。
 法を破れば犯罪者である。しかし、法を破っても道を守らなければならないこともありうる。道が破れてしまえば、人間として崩れてしまうからである。著者が本書を刊行したのは、犯罪自慢でもムショ自慢でもなく、たとえ犯罪者であっても守らなければならない道があることを示したかったからであろう。著者が出獄の折に訓示を垂れた刑務官に対し、「はい、これからも真面目に任侠道に邁進します」と答えるシーンは清々しい。
 二つ目は、共に過ごした囚人仲間たちの姿を通して描かれる、人間の弱さである。世が世なら良い職人になっていたような人も、運命の歯車がずれて、「パンサー」(スリ)や「うかんむり」(泥棒)になってしまう。そして、彼らの中には、もはやそれ以外の生き方を見いだせない人もいる。気質的にそうである人もいるし、住むところも家族友人もいないため、出獄後に再び犯罪に手を染めざるを得なくなる人もいる。
 もちろん、罪は罰せられなければならないが、同時に、弱さが産み出した犯罪であるならば、真に更生しうる環境も整える必要がある。たとえば、著者は覚せい剤使用によって懲役を受けている囚人の問題を挙げる。覚せい剤常用者は刑務所内で、むしろ麻薬の売人や卸屋と知己を得て、ネットワークを広げることによって、出獄後の再犯率がかえって高まるのだそうだ。
 つまり、犯罪が多様化する中で、従来通りの画一的監獄行政では、更生という刑罰の目的の一つが十分に達せられていないのではないかと指摘する。
 そしておそらく、更生のための監獄行政に必要なのは、どうしてもそのような生き方をせざるを得ない人間という存在への洞察力なのだ。
犯罪者の世界を他人事であり、自業自得と割りきるのはたやすい。だが、結局、過ちは人の常、赦すは神の業である。

(副編集長 尾崎秀英)