【書評】天狗争乱

天狗争乱
吉村昭
新潮社
九六一円

 2012年のある秋晴れの日、評者は水戸藩主徳川斉昭が開設した藩校「弘道館」を訪ねた。東日本大震災の被害を修復中の正門を潜り抜け、弘道館の玄関に立った瞬間、息を呑んだ。玄関の突き当りの壁に高さ2メートル、幅1メートルはあろうかという巨大な掛け軸が聳えていた。掛け軸は薄暗い部屋の中から、「尊攘」の二文字を突き付けていた。
 「尊王攘夷」は王政復古の原動力となった思想だが、その発信源は水戸藩、就中、弘道館である。尊王攘夷という言葉は、斉昭が弘道館設立に際して認めた一文、「我が東照宮、撥乱反正、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ」に由来する。尊王攘夷運動はあの掛け軸から本格化したのである。
 では、尊王攘夷とは何だったのか。

 筆者は「桜田門外の変は、水戸で興った尊王攘夷思想を信奉した水戸脱藩浪士が中心になって起こされた暗殺事件で、その思想をより深く解明するには、その後に起こった天狗党による騒擾事件を書かねばならぬ」(637頁)と、本書の執筆動機を明かしている。
 天狗党の乱と称される争乱は、すこぶる複雑であるが、概略はこうだ。 150年前の元治元年(1864)3月、藤田東湖の息子小四郎は、水戸藩士を中心とする同志63名と共に筑波山で挙兵した。これを天狗勢という。彼らの目的は、挙兵によって全国諸藩の尊王攘夷論者をふるい立たせることで、幕府を攘夷決行に踏み切らせ、自ら攘夷の先鋒を任じることだった。しかし、6月、幕府は乱暴狼藉を理由に天狗勢追討軍を発し、戦闘が始まった。この戦争は水戸藩で勃発した内戦と合体し、各勢力が入り乱れて戦闘を繰り広げた。
 10月に戦争は一段落したが、千名近くに膨れ上がった天狗勢は水戸藩の重鎮武田耕雲斎を総大将に仰ぎ、京都で禁裏守衛総督を任じる徳川慶喜を頼って西上することに決した。慶喜は斉昭の子であり家来である自分たちの至誠を理解してくれるはずだった。しかし12月、慶喜は天狗勢討伐軍を率いて京を発ったのである。難路を踏破して加賀藩新保村にたどり着いた天狗勢は、その一報に愕然とした。進退を決する軍議が開かれ、喧々諤々の議論が巻き起こる。曰く降伏、曰く抗戦、曰く長州転進……。最終的には、慶喜は我らの志を理解し、きっとそれを朝廷に伝えて下さる、すべて慶喜に任せようと言う耕雲斎に従って降伏した。
 が、慶喜は何もせず、天狗勢823名に対する処罰は苛烈を極めた。翌年2月、5日間に分けて、天狗勢352名が斬首された。さらに武田耕雲斎や藤田小四郎ら指導者たちの首は塩漬けにされ、水戸で引き回しのうえ晒された。親族も無事ではない。例えば水戸藩で投獄されていた耕雲斎の家族は三歳の息子に至るまで処刑された。なお、斬首以外の数百名は各藩に投獄されたが、ほとんどが獄死した。
 筆者は「あとがき」で「尊王攘夷思想は、当時、全国の有能な人々に強烈な影響をあたえたが、それは時間の流れとともに変形し、消えていった。その中で天狗勢のみは、信奉の姿勢をくずさず、それが悲劇となったと言うべきである」(639頁)と書いている。大日本史の結晶である尊王攘夷は全国に飛び火したが、最終的に天狗党の乱となって火元である水戸藩を焼尽させた。これが日本的な歴史なのである。
 弘道館を訪ねた後、評者は回天神社に参拝した。境内にある天狗党の乱で絶命した犠牲者の墓地には、膝くらいの高さの墓石が何十と整列している。怨念渦巻く、という感が凄まじい。弘道館と回天神社は、尊王攘夷の始点と終点だ。
 「一将功なりて万骨枯る」と言うが、王政復古なりて万骨枯る、それが天狗党である。筆者は天狗勢に対して何も言わない。顕彰せず、非難せず、感謝せず、憐憫せず、同情しない。ただ黙々と天狗勢の行動を書くだけである。非業の死を遂げた死者、ましてや無駄死にした死者に対しては、沈黙せざるを得ないからだ。だから祈ることもできない。ただ骨を拾うのみである。そして墓を作るのだ。それが文学の仕事なのだろう。本書は天狗党の乱で死んだ者達の墓なのである。(編集委員 杉原悠人)