【書評】 日本の怨霊

 勝者が敗者に赦しを乞い、その魂を慰撫し、鎮めるのが日本の歴史であると言えよう。もちろん、表の政治史は勝者によって推進されていくのだが、裏の政治史である文学や美術、建築物の多くはむしろ敗者のために捧げられている。
 桓武天皇は甥にあたる早良親王を無実の罪に問い、死に追いやったが、そのために皇統を祟る最大級の怨霊と化した親王の魂を鎮めるために、桓武天皇は平安遷都を行い、さらに御霊神社を建立した。
 鎌倉幕府が成立したとき、いかにして源氏が正当にも平氏を下したかという易姓革命思想に裏打ちされた史書は著されず、滅んだ平氏の魂を鎮める『平家物語』が語られ続けた。
 後醍醐帝が吉野の山の中で苔と朽ち果てた時、さまざまな天変怪異が発生した。北朝は帝の魂を鎮めるために天竜寺を建立したが、この寺も幾度も焼け落ち、帝の怨霊が鎮まる気配はなかった。建物を立てたぐらいでは駄目で、争乱の中で人々がどのように生き、どのような思いを抱いて死んでいったかを明らかにしなければ怨霊は鎮まらないとして、『太平記』は編纂された。
 つまり、日本人は勝ち誇り、驕り高ぶることなく、一旦政争・戦争が終われば、勝者は敗者の魂を慮るのである。中国であれば、勝者は敗者の存在を歴史そのものから抹殺し、歴史を最初から書き直すだろう。これを彼らは「文章は経国の大業」と呼んだのである。
 彼我の差は一体、どこから出てくるのであろうか。日本人が突出して心優しい民族だということはない。どの民族も、等しく残酷で、等しく貪欲で、等しく、ほんの少し心優しいのだ。
 中国史においては、政権交代とはほとんど必ず、異民族による政権奪取であった。すなわち、意思疎通もない、下手をすれば言語さえ通じない敵との終わりなき闘争が中国の歴史である。これを北畠親房は「支那は乱脈な国風」と呼んだのである。
 日本においては、このようなまったくの理解不能な他者として政治闘争が行われたことはなかった。それぞれがそれぞれの正義を掲げているのだが、敵対しあっている者同士でも、相手の内在的論理は理解できてしまうのである。相手にも理があることがわかってしまうのである。そこに情が生まれる。いわば、日本国内における政争は、根本的には兄弟喧嘩なのである。(その感覚を外交に持ち込んではならないのは当然だが)。そして、政争は手段・方法をめぐる争いであって、その究極の目標は大抵同一である。すなわち、わが日本をいかに守るか、ということである。
 もちろん、政治は時に非情にならなければならない。悪鬼となって政敵を徹底的に抹殺せねばならない時もあるし、泣いて馬謖を切らねばならぬこともあろう。だが、倒れた敵の想いも痛いほどわかる。生き残った者は、敵であれ味方であれ、死んだ者の想いを引き受けて生きてゆかねばならない。その想いを忘れた時、不意に、死者たちは「我らの想いを忘るるな」と呼びかけてくる。すなわち、怨霊である。
 「怨霊や幽霊、妖怪は古代の人々が頭や心の中で創り出した幻想、幻覚であるかもしれないが、それは自分たちの心の中にある妖怪的部分を外に追い出して具象化し、対象化し、それを怖れ、敬うことで人間生活や心の平安を保ってきた、考えようによっては非常に合理的な心理システムだったかもしれない。
 怨霊・幽霊・妖怪を駆逐して、人間しかいない世の中を造れば、人間そのものが妖怪化せざるをえない、それが現代日本の病理ではないかと考えられる。」(164頁)
 怨霊が見えなくなった時、われわれは過去からの呼び声も聞こえなくなってしまったのかもしれない。いや、事態は逆で、われわれが日本の未来に不安や不透明さを感じているのは、われわれが忘却の彼方に押しやってしまった怨霊のなせる技なのかもしれない。
 もっと近い例で言えば、今の為政者には三陸をさまよう二万の怨霊が見えていないのかもしれない。だが、彼らは確実に存在し、鎮魂を求めている。われわれは、いかにしてその声に応えることができるだろうか。
 本書は、井上内親王、早良親王をはじめ、とりわけ皇統に祟りをなした怨霊たちと、彼らをいかに鎮めてきたかに焦点を当てた異色の日本史である。本書を通じて著者は次のように結論している。
 「見えない存在に心澄まして謙虚に向き合う精神をもう一度日本人が取り戻さないと、豊穣な日本文化はやがて立ち枯れてしまうことになるだろう」と。

(副編集長 尾崎秀英)