【書評】飢死した英霊たち

あゝ万世の大君に水漬き草生す忠烈の誓致さん秋到る勇ましいかなこの首途いざ征けつわもの日本男児――出征兵士を送る歌

 八月十五日、我々は靖国神社で英霊の前に頭を垂れる。しかしその英霊の大半が餓死者なのである。「この戦争で特徴的なことは、日本軍の戦没者の過半数が戦闘行動による死者、いわゆる名誉の戦死ではなく、餓死であったという事実である。『靖国の英霊』の実態は、華々しい戦闘の中での名誉の戦死ではなく、飢餓地獄の中での野垂れ死にだったのである」(3頁)
 本書は、ガダルカナル島の戦い、ポートモレスビー攻略戦、ニューギニア転進、インパール作戦、メレヨン島等孤島の戦い、フィリピンの戦い、中国戦線における餓死の実態を明らかにした上で、大量餓死をもたらした日本軍を追及する。
 今村均第八方面軍司令官は「大本営は全くニューギニアの地形を知らなかった。地図だけで示してくるのである。……補給がきわめて軽視されていたのである。……大本営は白紙戦術のような指導をしたといえる」(55頁)と回想している。
 同じことが各戦地で繰り返された。大本営の机上の空論のせいで「将棋でいう歩となった者が、無駄な犠牲に供されねばならなかった」(119頁)のである。
 1943年、陸軍第18軍はニューギニア東部に上陸し、米軍と戦うためにジャングルを東奔西走した。その道程には「草生す屍」が折り重なった。「海岸或はジャングルの至るところでプーンと鼻をつく死臭、そこ此処に三人或は五人と皮ばかり、或はビヤ樽のようにむくみ、無残にも餓死して居る。中にはまだ生きて目をパチパチして居るうちに、耳、鼻、口と蛆虫がわいている。……生死を別け合った戦友の死体に一寸の土をかける勇気ももはやなかった」(57頁)

 しかし制空権を握っている米軍は空路、海路を駆使して第18軍を置き去りにして、西部に侵攻していった。軍事的存在意義を喪失した第18軍は終戦まで一年以上、ジャングルで餓死と熱帯病に苦しんだ。戦争末期、敵に包囲され玉砕を命じられた少尉は「ボロボロの哀れな服装そして骨だらけの肉体、もう軍人でないコヂキの集まりなのだ。……此の際軍人の名誉より一粒の米、一なめの塩の方がずっとずっと欲しい。『武士は食わねど高楊枝』なんて言葉は通用しない。もう一年間も人間らしい食物を食べていない人間には只々食べる事のみが重大な問題なのだ。そして一秒でも一瞬でも生きたいんだ」(66頁)と回想している。中には人肉を口にした例もあるという。
 インパール作戦でも大量の餓死者が出た。ある兵士は「遺棄された死体が横たわり、手りゅう弾で自決した負傷兵の屍があり、その数がだんだん増えてきた。石ころの難路を越え、湿地にかかると、動けぬ重症の兵が三々五々屯していた。水をくれ、連れていってくれ、と泣き叫び、脚にしがみついて離れないのだ。髪はのび放題にのび、よくもこんなにやせたものだと思うほど、骨に皮をかけただけの、あわれな姿だ。息はしているが、さながら幽霊だった。……その頃、誰言うことなく、この街道を靖国街道と言った。その儘歩き続ければ、靖国神社に通じるという意味である」(79頁)と回想している。
 餓死には、食物をまったく摂取しないで起こる完全飢餓と、栄養の不足または失調による不完全飢餓がある。不完全飢餓による戦病死も、広義の餓死といえる。1977年に厚労省が明らかにした数字では、「軍人・軍属・準軍属」の戦没者230万人、外地での戦没、一般邦人30万、内地での戦災死者50万、合計310万人となっている。(3頁)本書は、広い意味での餓死者は合計で127万6240名、全体の戦没者212万1000名の60%強という割合だと結論している。(138頁)戦没者を230万人とすると、そのうち140万人のほとんどが餓死者ということになる。
 坂口安吾は「人は特攻隊を残酷だというが、残酷なのは戦争自体で、戦争となった以上はあらゆる智能方策を傾けて戦う以外に仕方がない。特攻隊よりも遥かにみじめに、あの平野、あの海辺、あのジャングルに、まるで泥人形のようにバタバタ死んだ何百万の兵隊があるのだ」と書いた。数多の兵士がジャングルを散歩しただけで全く無意味に死んだのである。それも飢えに苦しみぬいて死んだのである。その死は無意味ゆえに特攻隊より遥かに残酷である。
この無意味さには、何の意味があるのだろうか。私にはそれが分からない。ゆえに沈黙せざるを得ない。ただ餓死した英霊の無念さを思うだけである。ただ歴史の運命に慄くばかりである。
(編集委員 杉原悠人)