【書評】 京都大文字五山送り火

 戦後、物質至上主義が強まったわが国でも、お盆などの行事を通じ祖先の霊を祀るという感覚が維持されていることに、安堵感を覚える。
 お盆の入りの8月13日の野火は「迎え火」、お盆の明けの16日の野火は「送り火」と呼ばれる。迎え火によって死者の霊をこの世に迎え、送り火によって死者の魂をこの世から再びあの世へと送り出す。送り火には、家庭の玄関先や庭で行われるものから、地域社会の行事として大がかりに行われるものまで、様々な規模のものがある。また、大別すると山の送り火と海の送り火の二つがある。
 山の送り火として最も有名なのが、京都の五山送り火で、海の送り火として知られるのが、長崎県などで行われる「精霊流し」(灯籠流し)だ。盆提灯や造花などで飾られた精霊船に故人の霊を乗せて、「流し場」と呼ばれる終着点まで運ぶ。
 『諸国年中行事』など、江戸時代に描かれた大文字送り火の挿絵を見ると、人々が鴨の河原に出て水際に石を積み、樒の枝を立て線香をともし、苧殻の松明に火をつけて送り火を焚いている。当時盆の精霊送りは、水辺に送るものと、山に送るものとの二つの送り方が重複して行われていたのだ。
 民族学者の五来重は、我々の祖先の霊魂観念には、水を伝わって遠い海の彼方の幽界に去来するものと、山の上から幽界へ去来するものとがあったと書いているが、これは、海岸の民と山地の民という二つの異なる他界観念が融合していった過程を示しているのかもしれない。
 本書は、山の送り火の代表的行事である五山送り火について、京都市文化観光資源保護財団と大文字五山保存会連合会が解説したものである。五山送り火の点火までの流れ、それに携わる人々の動きを、豊富な写真や図などのビジュアルを駆使してわかりやすく説明している。
 五山の送り火は、東山・如意ケ獄の「大文字」、松ヶ崎・西山(万灯籠山)、東山(黒天山)の「妙・法」、西賀茂・形山の「船形」、大北山の「左大文字」、嵯峨・曼荼羅山の「鳥居形」の五つの火文字。
 8月16日午後8時にまず「大文字」に火が灯り、続いて同10分に 「妙・法」、同15分 「船形」と「左大文字」、同20分に「鳥居形」と、反時計回りに次々と火が灯っていく。かつては、「い」(市原野)、「一」(鳴滝)、「竹の先に鈴」(西山)、「蛇」(北嵯峨)、「長刀」(観空寺村)も点火されていたが、廃絶したという(10頁)。
 五山送り火の起源については、平安初期に空海によって始められた、室町中期に足利義政によって始められた、さらに江戸初期に近衛信尹によって、など諸説あるがはっきりしていない。公家舟橋秀賢の日記『慶長日件録』の慶長8(1603)年7月16日条に「暁に及び冷泉亭に行く、山々灯を焼く、見物に東河原に出でおわんぬ」とあるのが、記録に出てくる最初である。
 本書は、こうした五山送り火の歴史を紹介した上で、その準備過程を詳細に描写している。
 16日午前中から点火資材となる松割木や護摩木などを山上に運び、火床に組む。如意ケ獄の支峰大文字山(標高466メートル)の中腹において行われる大文字送り火の火床は、松割木を井桁に高さ約1・3メートル程積み重ね、その中に松葉を入れ、その周りに麦わらで囲う。
 「大」の字の第一画は80メートル、二画は160メートルにも及び、火床は全部で75カ所にものぼる。合計、薪600束、松葉100束、麦わらは100束が使用される。火床の準備だけでも大変な労力であることがすぐ理解できる。また、点火中には、消防署や消防団が類燃などを防止するために、火床周辺の放水をする。
 大文字送り火は、銀閣寺周辺の旧浄土寺村(銀閣寺町、銀閣寺前町、浄土寺東田町、南田町、石橋町)の人々で構成する大文字保存会によって行われてきた。現在は、「特定非営利活動法人大文字保存会」として活動している。
 評者は、保存会関係者のご厚意で、今年8月16日に大文字山の中腹まで登り、「大」の字の中心「金尾」付近で、厳かな読経・献花、そして点火の瞬間を間近で拝見する機会に恵まれ、関係者の献身的なご努力を肌で感じることができた。
 本書が説明している通り、大文字を保存していくためには、毎年長期間の準備と多くの労力が必要となる。点火に使う松材は、強い火力を出すために、樹木に最も水分の少ない毎年2月頃に刈り出される。これを野積みにして2カ月ほど乾燥させてから割木する。点火周辺の雑木や下草の刈り込み、参道、点火を行う火床の修復などの作業も必要だ。
 本書の読者が、日本の精神文化を維持するという視点から、五山送り火保存の意義を認識し、大文字保存会等、関係者への支援、協力の思いを抱くことを期待している。

(編集長 坪内隆彦)