【書評】 ペリー来航

 日本国内でアメリカに対する反発の声が大きくなっている。沖縄をさらなる危険にさらすオスプレイの配備を強行しようと画策し、日本経済に壊滅的打撃を与えるTPPへの参加を強いているのだから、それも当然である。
 とはいえ、日本人の多くが依然としてアメリカに対して良いイメージを抱いているのもまた事実である。それは「古き良きアメリカ」へのシンパシーから来るものである。現在のアメリカの政策を批判する者の多くも、その一方で「古き良きアメリカ」には賛辞を送り、彼らがその精神を取り戻すことを期待している。
 しかし、そうしたイメージはもう捨て去った方がよい。「古き良きアメリカ」など幻想に過ぎない。アメリカは建国当時より、現在と何ら変わらない侵略国家だった。それは、ペリー来航の経緯を見ても明らかである。

 その当時、アメリカは「明白な神意」の下に領土を拡大し、カリフォルニアまで手中に収めていた。さらには、中国における権益を拡大するために、太平洋横断航路の確保にも乗り出そうとしていた。
 広大な太平洋を航海するには補給地が必要となる。アメリカが日本に対する関心を高めたのはそのためである(本書83頁)。
 そうしたアメリカの動きを、江戸幕府は正確に把握していた。ペリーの日本来航も一年前より察知していた。幕府にはオランダから詳細な情報がもたらされていたからである(96頁)。江戸幕府はペリー来航に右往左往するだけで何もできなかった、というのは、後に明治政府が自らを正当化するためにでっちあげた物語にすぎない。
 ペリーが最初に訪れたのは琉球である。彼はそこで対日交渉方針を立てた。それは、日本が鎖国政策を緩めて開港する可能性があれば、再び日本を訪れて本格的な交渉を行い、日本が開港を拒否すれば、琉球と条約を結び、貯炭所を設けて太平洋上の補給港とし、本土開港の代替措置とする、というものであった(107頁)。
 もちろん、ペリーは琉球と対等な条約を結ぶつもりなどなかった。それどころか、彼は琉球占領をも目論んでいたのである。実際、ペリーは琉球に対して、要求に対する満足な回答を得られなければ、200人の兵を率いて宮廷を占拠すると通達している(130頁)。
 こうした軍事力の行使を、ペリーは文明の名において正当化した。彼は、琉球が島津家によって事実上支配されていたことについて、「琉球に関しては、このみじめな人々を暴虐な支配者の抑圧から守る以上に、偉大な博愛の行為を私は思いつかない」(131頁)という見解を示している。文明の名の下に軍事侵略を行おうというのは、何もイラク戦争に限った話ではない。それはアメリカの建国精神に根差したものなのである。
 ペリーの艦隊が再び琉球を訪れた際、そこでアメリカ人水兵が殺害されるという事件が起こった。事件の真相は、水兵が琉球女性に暴行を働いたため、その子供が水兵を打ち殺した、というものであった(185頁)。今日の沖縄における米兵の犯罪を彷彿させるものである。

 このように、アメリカはかねてより沖縄領有を企てていた。それゆえ、今日において、米軍が沖縄から一向に出ていこうとしなくとも不思議ではない。
 我々はこのアメリカといかに対峙すべきなのか。そのヒントもまた、ペリーの時代にある。
 ペリーの艦隊が下田沖に停泊していたとき、二人の日本人がボートに乗ってやってきた。吉田松陰と金子重之助である。彼らはアメリカへの密航を求めたものの拒否され、国禁を犯したため獄に繋がれることとなった。いわゆる下田踏海事件である。
 巷間では、彼らの目的はアメリカに渡って新しい知識を得ることだったと言われているが、果たしてそうか。
 松陰はペリー来航直後、同志である宮部鼎蔵に書簡を送っている。そこには、「聞くところによれば、彼らは、来年、国書の回答を受け取りにくるということです。その時にこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」と記されていた(川口雅昭『吉田松陰』)。
 その意図するところは明らかであろう。松陰が黒船に乗り込んだのは、ペリーを暗殺するためだったのである。
 今日の日本に求められているのは、この松陰の精神である。我々は今こそ対米従属精神を断ち切り、アメリカからの独立を成し遂げねばならないのである。

(編集委員 中村友哉)