【書評】 東洋の理想

 日本近代美術の父といわれた岡倉天心の没後100年の命日に当たる9月2日、映画「天心」の完成披露試写会が行われた。この映画の主題歌「亜細亜の空」を作ったのは、天心ゆかりの地、北茨城市出身のミュージシャン・石井竜也さん。そこには、「亜細亜は一つ」と詠われている。
 「アジアは一つ」は、本書冒頭にある有名な一句だ。
 「アジアは一つである。ヒマラヤ山脈は、二つの強大な文明、すなわち、孔子の共同社会主義をもつ中国文明と、ヴェーダの個人主義をもつインド文明とを、ただ強調するためにのみ分っている。しかし、この雪をいただく障壁さえも、究極普遍的なるものを求める愛の広いひろがりを、一瞬たりとも断ち切ることはできないのである。そして、この愛こそは、すべてのアジア民族に共通の思想的遣伝であり、かれらをして世界のすべての大宗教を生み出すことを得させ、また、特殊に留意し、人生の目的ではなくして手段をさがし出すことを好む地中海やバルト海沿岸の諸民族からかれらを区別するところのものである」(富原芳彰訳、17頁)
 本書は英文で書かれ、1903年にロンドンのジョン・マレー社から刊行された。その前年1月、天心はインドを訪問していた。コルカタに着いた天心は、まずヒンドゥー教の聖者スワミ・ヴィヴェカーナンダと対面した。「東洋の理想」という表現は、ヴィヴェカーナンダが好んで用いた表現だった。1896年2月のニューヨーク講演でも、彼は「東洋の理想は、西洋の理想と同じように人類の進歩にとって必要です」と語っていた。
 ヴィヴェカーナンダはまた、「西洋の人々は組織、社会制度、軍隊、政府等々に立派です。しかし宗教を説くということになると、常にそれが仕事であったアジア人のそばにも寄れません」とも語っていたが、こうした考え方は本書冒頭の一節に通じている。
 ヴィヴェカーナンダの勧めで天心が対面したのが、後にアジア人として初のノーベル文学賞を受賞する、詩聖ラビンドラナート・タゴールである。タゴールもまた、天心と同様に、急進的欧化に反対し、固有の文化の維持を唱えていた。
 インド滞在中、天心は仏陀の初説法の地として知られるベナレス府などを訪れて仏教芸術の本質に迫り、アジャンタ石窟に赴き、その壁画と法隆寺金堂との類似を確信した。天心は、仏教美術の伝播に共通の文化を実感し、日本とインドの親近性を確信した。遠いはず、異質のはずのインドとの共通性を見たとき、彼はアジア全体の共通性を直観した。
 ヴィヴェカーナンダ、タゴールとの出会いを通じ、アジアの精神に圧倒され、インドへの尊敬は頂点に達した。だが、そのインドが同時にイギリスの帝国主義支配の前に踏みにじられ、インド民衆は自信を喪失している。そのとき、天心はインドの誇り、東洋の誇りの回復を願って叫ばずにはいられなかったのである。こうして、冒頭の「アジアは一つ」は着想されたのである。
 本書は、中国やインドの思想や美術の影響に注目しながら、飛鳥時代から明治期に至るまでの日本美術史を概観している。この歴史記述の部分は、インド訪問前にほとんど完成していた。しかし、インドでの強烈な体験によって「理想の範囲」に「アジアは一つである」で始まる東洋文明論を書きこみ、最終章「展望」もその思想に沿って書いた。こうして、本書は単なる日本美術史の本ではなく、壮大な東洋文明論の本として完成したのである。
 天心は、物質至上主義、効率万能主義、利己主義に陥る西洋近代文明の限界を見抜き、東洋文明の価値を称揚した。
 「アジアの簡素な生活は、蒸気と電気とのために今日それが置かれたヨーロッパとの鋭い対照を、毫も恥とする必要はないのである。……たしかにアジアは、時間を貪り食らう交通機関のはげしい喜びはなにも知らない。だがしかし、アジアは、いまなお、巡礼や行脚僧という、はるかにいっそう深い旅の文化を持っているのである。……今日アジアのなすべき仕事は、アジア的様式を回復する仕事となる。……生命はつねに自己への回帰の中に存する」(206~207頁)
 こうした東洋文明論は、同書に始まり、『日本の目覚め』や『茶の本』へと続く天心の著作に貫かれている。
 同書刊行から110年。いま一部の大資本の利益追求のためにTPPが推進され、効率万能主義がさらにアジアを覆おうとしている。いまこそ、天心の主張に耳を傾けるべきときなのではなかろうか。

(編集長 坪内隆彦)