【書評】 神々の沈黙

ジュリアン ジェインズ著、柴田裕之訳 紀伊國屋書店 三三六〇円

 2012年はオウム真理教事件の逃亡者・平田信の出頭というニュースから始まった。
 95年の1月に阪神大震災が起こり、その二ヶ月後の3月20日、地下鉄サリン事件が起き、一連のオウム事件の発端となったのだった。
 危機の時代には哲学と宗教が発達するものらしい。ソクラテスが活躍したのは衰亡を目前にしたアテネだったし、春秋戦国時代、あい続く戦乱の中から諸子百家、中でも孔子や老子が登場した。哲学者ヤスパースは紀元前800年から200年ほどの間に、世界中で多種多様な哲人・宗教家が登場したこの期間を「枢軸時代」と呼んでいる(他にもインドでは釈迦が、イランではツァラトゥストラが、パレスチナでは預言者イザヤ、エレミアらが輩出している)。
 日本のみならず国際政治が不安定化する中、再び枢軸時代が近づいているのかも知れない。
 オウム事件の折、マスコミが注目し、様々な言論が注目したのは、「なぜ、高学歴の人間がオウムに入信してしまったのか」という問題だった。だが、この問いかけは「宗教は迷信であり、宗教に帰依する人間は知的に劣っている」という前提に基づく問いだった。結局、この問いは解決されることなく、オウム事件自体も裁判の終結と共に、忘却されていくのかも知れない。そして完全に忘れ去られた頃に、再び同様の事件が繰り返されるのかも知れない。特に、日本人が福島原発事故に恐れおののき、科学技術への不信と恐怖に取り憑かれ、さらに、資本主義経済が破綻を目前にしつつある現在、近代文明に文字通り背を向けて迷妄の暗闇に沈潜しようとする人間が出てきてもおかしくはない。
 だが、知性によって生み出された混乱は知性によってしか乗り越えることはできない。なぜ我々は数千年に渡って文明を築き上げ、そのくせ、倦むことなく何度も破滅を経験しなければならないのか。なぜ我々は、その度に過去を美しいものとして眺めて、退行の誘惑に駆られるのか。なぜ我々は、数千年の文明の営為にもかかわらず、「我々はどこから来て、どこへゆくのか」という単純な問に答えることができないのか。そもそも、我々は一体何者なのか。
 本書の著者ジュリアン・ジェインズは、「わたし」とは何か、すなわち、意識の誕生、その起源を訪ねる知的冒険に我々を誘う。そこでは脳生理学の成果や、統合失調症の症例研究から、古代アッシリアの壁画、シュメール文明の楔形文字、ミケーネ文明の遺構、さらにはヘーゲル、マルクスまで、古今東西の資料を渉猟しつつ、意識と文明とは神の喪失から生まれ、文明とは、失われた神の声を再び聞こうとするための営為である、と考える。
 ここでは、「二分心」という概念がカギとなる。『イーリアス』において、英雄たちの行動は、神々の声に導かれて為される。そこに自我というものはない。自我が生まれる以前の人間たちは、神々の声(二分心)を聞いていたのである。これらは、今日では幻聴と呼ばれ、精神科の担当するところとなっている。
 大事なのは、この頃はまだ文字は現在ほど発達しておらず、自らの意識を対象物として観察するということがなかったことだ。逆に言えば、文字の発達と共に、自らを省みること、内省が生まれ、意識が生じた。それと共に神々の声は聞こえづらくなり、聞こえたとしても、現代のように「幻聴」として片付けられてゆくようになった。そして同時に、我々は神々と共にあった安心を失い、不安のままに、自らのあり方を命ずる絶対的なものを、すなわち神の代理を探し求めるようになった。政治の誕生であり、文明の誕生である。そして、科学でさえも、神の残像を探し求める、「二分心時代への回帰」の営みであるのだ。
 もとより、ジェインズの議論は学問的な基盤は相当危ういもので、壮大な与太話と言うこともできる。(ジェインズの博識ぶりと思想的構築力のたくましさは疑うべくもないが)。
 だが、神々の沈黙を前にして、何とかしてその声を再び聞こうとして文明が形成されてきた歴史絵巻を前にすると、ここで我々が文明に倦み疲れ、甚だしくは文明に背を向けて文明発達の歩みを止めてしまうことは、人類の歴史そのものへの裏切りだと思えてくるのである。
                                                      (副編集長 尾崎秀英)