【書評】ケネス・B・パイル著『欧化と国粋』

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 後世の我々は「日本は幕末から明治になった」と考えて憚らない。幕末と明治の連続性は自明だ。ところがその時代を生きた当事者たちにとって、幕末から明治への移行は自らの実存を脅かす耐え難い経験だった。明治維新は尊皇攘夷のためには西欧化しなければならないという矛盾逆説を彼らに体現させたからだ。
 本書は「自分は何者なのか」という切実な問いに悪戦苦闘した二種類の知識人を研究する。一つは徳富蘇峰に代表される民友社の系譜、もう一つは三宅雪嶺や陸羯南に代表される政教社の系譜だ。重要なのは、彼らは問いに「答えよう」としたのであって、「答えた」のではないということである。
 明治の青年たちは旧時代と新時代の狭間で股裂きにされていた。「嗚呼夫れ今日の日本は如何なる日本ぞ、旧日本已に亡びて新日本未だ興らず、余輩は今如何なる宗教を奉じ、如何なる道徳主義を持する者なるか、将た又如何なる主義の政化に浴するものなるか、想ふて此に至れば忙然として五里霧中に彷徨して未だ帰着する所を知らざるの感なき能はざる也。大凡天下の事其の最も懼るべき者は懐疑と妄信との感なるに在り」(24頁)「かれらの中でも教養のあるものは、本当にそれを恥じている。一人の学生は、私の聴いているところで、『あれは、野蛮な時代のものです』と言った。別の一人は、私が日本の歴史について質問したところ、『我々には歴史なんてありません。我々の歴史は、いま始まるのです』と、きっぱりと答えた」(43頁)「いかに古来の道徳がすぐれていたとしても、私たちはそのような道徳律に従うことはできません。そんなことをすれば、私たちの国家の独立を守ることも、進歩を達成することもできないのですから。……私たちは自分の過去を捨て去らなければならないのです」(38頁)
 この裂け目からハーバード・スペンサーの社会進化論をひっさげた徳富蘇峰が出てくる。彼は「諸君ガ尤も大敵タル可キモノハ諸君ガ恒ニ敬愛スル所ノ彼ノ老人輩ニアリ……渠輩ハ過去世界ノ遺物也。諸君ハ将来世界ノ主人也」(62頁)と断言しながら、日本は人類社会の普遍的・必然的進化に従い、積極的に進化(=欧化)を進めなければならないと訴えた。彼は民友社を結成し、『国民之友』誌を発行して世論を率いた。
 とはいえ、過去はそう簡単に捨てられるものではない。そこで列強と伍するには国民精神が、国家的独立には文化的独自性が不可欠だという危機感から三宅雪嶺、陸羯南が出てくる。政教社が結成され、国粋主義を唱える『日本人』誌が衆望を集める。しかし彼らは国粋主義を掲げながらも国粋とは何か答えを出せなかった。「国粋主義は我社の持論なりと雖ども、未だ社説として論究したることなし。是れ一は重要の問題にして、軽々に議了し能はざることと、一は社員中各自それそれに抱懐する所の特見ありて、未だ相集りて之を一定するの好機を得ざりしに原因するものなり」(116頁)
 歴史に拠らねばアイデンティティを見付けられないにも拘らず、彼らは歴史から疎遠あるいは断絶しているというジレンマの中で、曖昧な決意しか述べられなかった。日本を守りたいという情熱がある。しかし何を守るのか、どう守るのかが分からないのである。「日本にとって最善の防衛は、国民の自己認識(「国民の自知」)である、と陸は結論づけている。保持されるべき日本の国民性・独自性とは、正確に何であるのか。陸は、明確な解答を持っていないことを告白した。しかし、政教社の青年たちとともに、かれは探求を始めた。というのも、かれや志賀や三宅やその他の人々は、一つのこと、つまり模倣は自己を否定することであり、帝国主義の全盛期においては、それは自滅にもつながり得るものだ、ということを確信していたからである」(126頁)
 目前に自己(我々)を否定する現実がある。それを否定する。しかし自己が何かは分からない。この狭間で藻掻き続ける自己を知るのみだ。この悶絶が政教社の宿命だ。強いて定義すれば、国粋主義とは否定に次ぐ否定という運動体であり、問いに次ぐ問いという運動体なのである。
 その後、日清戦争を経て「奇異なる国家主義」(陸羯南)が台頭し、徳富は国家主義者に転向した。変節漢だという非難に対して「苟も公人として世に立つからには、大勢に順応して、大勢を率ゐると云ふ事は、当然の事であらうと思ふ」(291頁)と反駁したように、徳富は国家の主流をまさぐる波乗りである。彼の変節は一個人の浮気症ではなく国民の当惑動揺を照射しているに過ぎない。変節漢は明治人そのものなのである。この問題を引き継ぐ我々にとって、彼等の苦悩の軌跡を辿ることは無意味ではないだろう。 (編集委員 杉原悠人)