私たちにとって3・11とは何だったのか 南直哉(みなみじきさい)

今月号では東日本大震災から三年目にあたり、「3・11を忘れるな」という特集を組みました。我々日本人は3・11をどう受け止めるのか、これは国家の運命を左右する重大な問題です。
そこで恐山菩提寺院代を務める禅僧として被災者に寄り添ってきた南直哉(みなみじきさい)氏にインタビューしました。ここではその一部をご紹介します。

日本人は思考停止に陥っている
―― 2011年3月11日の東日本大震災から3年が経とうとしています。青森県恐山菩提寺院代として、今どのようにお考えですか。
 被災地が熱心な信者さんのお住まいの場所と重なる恐山には、3・11後、5月の開山日から、被災者のお参りがあり、それが日を追うごとに増えていきました。
 この年は、私たちが言葉を失うような被災体験を数々聞いたものです。妊娠中の妻と子を亡くした金髪の若者や、「息子を亡くしたのに涙が流れない」と苦しむお母さん。「震災後に授かった孫は、震災で亡くした孫の生まれ変わりなのか」と悩むおばあさん。「俺みたいな年寄りが生きていて、何で若者が死んじまったのか」と問う男性。「助けて」と叫びながら流されていく人を見たという方もいました。
 しかし、翌年になると、そういう生々しい体験そのものよりも、体験の重さ、今の悲しみを吐露される方が多かったように思います。そして、3年目に入ると、別の思いが被災者の方にあるように思います。はっきりと言葉にしているわけではありませんが、「取り残されている」という感覚を強く抱いているように感じます。
「和尚さんね、どうしても気持ちが動かないんです。心はあの日のままです」「前向きになろうと思うし、言われるのですが、前が見えない」
 こういうことを言う人に何度か出会いました。
 彼らの「取り残され」感は、言葉を換えれば、「追い越され」感ではないでしょうか。我々「非被災者」が、彼らを置き去りにしているのではないか、と私は思うのです。
 震災当時、私は衝撃と共に、これだけのカタストロフィに見舞われた以上、我々は根本的にものを考え直すだろうと思ったのです。事実、当初はそういう風潮がありました。
 ところが、たちまちそうではなくなりました。それも、「復興」の名のもとに「復興」を忘れようとしているように思えるのです。それを決定的に感じたのは、例のオリンピック騒ぎです。まさか「東北復興」をうたい文句に「東京」を売り込むとは、夢にも思いませんでした。何の関係があるのでしょう。さらに驚いたのは、このオリンピック招致に、言論人から、ほとんどまったく批判が出なかったことです。私は、賛成3、批判1くらいの割合で批判が出ると思っていたのです。
 私たちは、これほどものを考えないまま、先に進んで行ってよいのでしょうか。あれだけの大災害に直面したのだから、せめて日本の指導的立場にある人ならば、深く考え込まざるを得ないだろうと思ったのですが、そうはなりませんでした。これには少なからずショックを受けました。
―― 安倍総理は「被災地の心に寄り添う」と言っていますが、原発再稼働を進めているところなどを見ると、どこまで本気なのか疑わざるを得ません。
 「東北の復興のために東京でオリンピックをやろう」という安直な発想とよく似ているのが、総理が初めのころ言っていた「日本を取り戻す」というスローガンです。一体何を失ったのか、一体何を取り戻すのかがまるでわかりません。
 安倍総理はこのスローガンによって、何か具体的な問題ではなく、ユートピアを語っているのだと思います。ユートピア思想の特徴は「ここではないどこかへ」というものですから、「日本を取り戻す」は「今の日本ではない日本へ」という意味でしょう。
 しかし、私が大事だと思うのは、目の前にある具体的問題に取り組みながら、その取り組みの中から何らかの展望を見出していくことです。目の前の問題をまともに見ずにいきなりユートピアを語るというのは、現実を強引に理想に合わせて改造する行為に変質しやすく、たいていの場合、大きな矛盾と困難に陥ります。
 この現実的な意味を無視して、漠然とした目的を掲げて先に進もうとするやり口は、他にもあります。例えば、2020年に東京オリンピック開催が決まった途端に、JR東海が2027年に開業を予定している東京―名古屋間のリニア中央新幹線を2020年に前倒しできないか、と言い出しました。これは何のためでしょう。まさか「東北の復興のため」ではないでしょう。災害対策のためなら、金の使い道は他にいくらでもあります。
 リニア新幹線に莫大な資源を投入して速さを追求するのは何のためなのか、それによって何をしたいのか、そうしたことについては何も語られていません。
 これは単に、とにかく「経済成長だ」というのと同じで、「速くなる、良い! 新技術、良い!」という、一種の思考停止に陥っているに過ぎません。結局、次世代に借金だけが残るということが目に見えています。
 これは結局、震災が結果的に露呈した、単に被災地にとどまらない日本全体の問題を見過ごしていくことなのです。
―― 日本人は東北に住む人たちを見捨てた、「棄民」したということでしょうか。
 「棄民」の意識などないでしょう。むしろ、思考停止のまま結果的に「棄てている」というのが現実ではないでしょうか。その無自覚のほうが問題です。

以下全文は本誌3月号を御覧ください。