現在との類似性
昭和7年5月15日、海軍の青年将校らが総理大臣官邸に乱入し、犬養毅を殺害しました。いわゆる五・一五事件です。
当時、日本経済は世界恐慌の影響によって生活が苦しくなり、農村では子供の身売りが日常的なものとなっていました。ところが、政治家たちは権力闘争に明け暮れ、財閥と癒着して私利私欲にまみれていました。
これはまさに現在の状況にそっくりです。我々は今こそ五・一五事件の意味を真剣に問い直す必要があると思います。
ここでは、弊誌2012年5月号に掲載した、五・一五事件に関する論考「なぜ『青年』たちは決起したのか」を紹介したいと思います。なお、ウェブサービスnoteにご登録いただくと、全文を100円で読むことができます。noteの登録は無料です。是非お試しください。(YN)▼
なぜ「青年」だったのか
五・一五事件は「青年」によって決行された維新運動であった。青年将校・三上卓たちが首相官邸を襲撃して犬養毅を殺害し、橘孝三郎率いる愛郷塾の農村青年たちが変電所を襲って東京の停電を図った。
事件の数年前に三上卓が「青年日本の歌」を創作したことからもわかるように、彼らは「青年」を自任し、「青年日本」を理想としていた。
なぜ、それは「壮年」でも「老年」でもなく「青年」だったのか。「青年」とはいったい何を意味するのか。そこに、五・一五事件を読み解くためのカギがある。
明治以来、日本の総人口は増加の一途をたどり、昭和時代に入ると六千万人を突破した。合計特殊出生率は5・0と高い値を示し、新生児や乳幼児の死亡数も低下したため、若年層が急増していた。
人口の増加は社会的競争の激化を招く。特に、三上たちの属していた海軍は、ワシントン条約により戦艦などが制限されたため、海軍兵学校の合格数が削減され、競争はさらに激しいものとなっていた。彼らは軍縮の申し子だったのである(福田和也『昭和天皇』)。
厳しい競争を勝ち抜いた若き軍人たちは熱気を帯びていた。彼らは国を変えなければならないという強い使命感を持っていた。
当時、日本経済は世界恐慌のあおりをうけ、生糸などが暴落したため、農民の生活は窮乏を極めていた。重い小作料に苦しむ農村では、娘の身売りが日常的なものとなった。それにもかかわらず、政治家たちは不毛な権力闘争に明け暮れ、財閥や軍部と癒着して私利私欲にまみれていた。
若き軍人たちは、そうした政治家や財閥、軍人が自分たちの上に居座っていることに強い不満を覚えた。実際、三上は教えを乞うために軍の上官のもとを訪れたが、何一つ教えられるところがなかったため、憤りの余り自殺し損なったこともあるという(花房東洋『「青年日本の歌」と三上卓』)。
「青年」たちの熱気は、あたかもビン内の空気の膨張がそのフタを飛ばすがごとく、上の世代へと向けられた。殺害された犬養毅が76歳と高齢であったのは象徴的である。
このように、五・一五事件には世代間闘争という側面があった。しかし、それで終わるならば古今東西を問わずよくある話である。もう一歩事件の本質へと踏み込む必要がある。
農民たちの五・一五事件
五・一五事件には農民決死隊と呼ばれる人々も参加していた。彼らは橘孝三郎が主宰する愛郷塾のメンバーであった。愛郷塾では、農業の重要性や、農村がいかに都市から搾取されてきたかが説かれていた。
資本主義に毒された都市を否定する橘たちは、兄弟村農場と呼ばれる農村共同体で生活していた。それは一種のコミューンであり、そこでは自給自足に近い生活が追求されていた。そして、農業の傍ら、愛郷塾で「青年」教育を行っていたのである。
農村の現実を知るにつけ、橘たちの怒りは大きくなっていった。世界恐慌の影響により壊滅的打撃を受けたにもかかわらず、農村は都市よりも多額の税負担を強いられている。しかも、都会人たちは、農村の犠牲の下に都市の発展があることを顧みようともしない。これは、TPPで農業が壊滅すると説いても、まるで他人事のように振舞う今日の都会人たちと同様である。……