翁長知事が最後まで口に出さなかったこと

翁長知事は県内移設推進派だったのか

 翁長雄志沖縄県知事が8月8日、膵臓がんのために亡くなりました。心よりお悔やみ申し上げます。

 沖縄では同11日、翁長知事も参加する予定だった辺野古新基地建設断念を求める県民大会が開催され、主催者発表で7万人もの人々が参加しました。沖縄の人口は約140万人ですから、単純計算で人口の5%が集まったことになります。日本全体に置き換えれば、640万人が集まった計算です。日本国の総理大臣が死去し、その後に総理大臣が参加予定だった国民大会が開催されたとしても、これほどの人々が集まることはないでしょう。

 もともと翁長氏は自民党に所属し、沖縄県議時代には普天間基地の県内移設を進めていました。そのため、辺野古新基地建設反対を掲げるようになったとき、いまさら何だという声もありました。

 もちろん翁長氏は神でも仏でもありません。判断を誤ることだってあります。しかし、翁長氏が県内移設に前向きだったと考えるなら、それは間違いです。そのことは翁長氏の遺作となった『戦う民意』(KADOKAWA)を読めば明らかです。

 この本は翁長氏の沖縄県知事就任1周年の年に出版されたものです。翁長氏の政治家としての姿勢や考えが端的にまとめられています。翁長氏はここで、かつて県内移設を進めた事情について次のように述べています。

 稲嶺氏(引用者注・稲嶺恵一)は普天間の代替施設の県内への移設を認めたうえで「代替施設の使用は一五年間に限る」ことを知事選の公約に掲げました。

 この移設先の基地の使用期限を公約に入れさせたのは、自民党県連幹事長だった私でした。防衛庁の官房長クラスと話をして「これを掲げなければ選挙に勝てない」と食い下がって、政府側にのんでもらった経緯があります。政府レベルである程度の了解を取り付けたわけです。

 県内移設は「苦渋の選択」でした。中央の自民党の決定には組織として従わざるを得ません。それは、もがき苦しむような、無念にして不本意な選択でした。断れば、今後の苦しい交渉が予見される。革新側からは「命をおカネで売るのか」と批判されながら、大きな権力によって押さえられる中で心を引き裂かれるような痛みを感じる決断でした。(171〜172頁)

 これは嘘偽りない思いだと思います。実際、翁長氏は稲嶺県政時代には県外移設を模索しています。

 辺野古移設については、反対派の阻止行動などから見直しの動きも出る中、稲嶺知事は基地の負担軽減などをアメリカ側に訴えて回りました。アメリカの反応を肌で感じた私は、自分なりに県外移設の代替地を模索するしかないという考えに至りました。

 私は稲嶺知事に「私は私なりの考えで動くので了承しておいてほしい」と伝えた上で、後日沖縄の県議らを連れて東京都に属する硫黄島を自衛隊機で訪れました。普天間基地の一部を硫黄島に移設できないかと考えたのです。(177頁)

翁長知事にヘイトスピーチを浴びせたネット右翼

 翁長氏が辺野古新基地建設反対の思いを強くしたのは、2013年に銀座でオスプレイ撤回のデモを行ったときではないでしょうか。このとき、翁長氏たちのデモに対してヘイトスピーチが浴びせられました。

 銀座でプラカードを持ってパレードすると、現場でひどいヘイトスピーチを受けました。巨大な日章旗や旭日旗、米国旗を手にした団体から「売国奴」「琉球人は日本から出ていけ」「中国のスパイ」などと間近で暴言を浴びせられ続けました。このときは自民党県連も公明党も一緒に行動していました。

 驚かされたのは、そうした騒ぎに「何が起きているんだろう?」と目を向けることもなく、普通に買い物をして素通りしていく人たちの姿でした。まったく異常な状況の中に正常な日常がある。日本の行く末に対して嫌な予感がしました。(188頁)

 これは全ての日本人が他人事ではいられない問題です。我々の中にも無意識のうちに同じような沖縄蔑視が潜んでいるはずです。その事実と率直に向き合う必要があります。

 翁長氏は本書のあとがきで、次のように述べています。

 これまで沖縄の人たちは、言いたいことがあっても言葉をのみ込んできました。しかし、私だけは政治的に死んでも肉体的に滅んでも、沖縄を代表して言いたいことを言おうと思いました。

 それでも何割かは口に出しません。けれども以前は三割しか言えなかったことが、六割ぐらいは言えるようになりました。(230頁)

 翁長氏は残りの4割を口にせずに生涯を終えたのでしょう。私は日本人の一人として、翁長氏に言葉をのみ込ませてしまったことに心の底から恥を感じます。日本は沖縄に対してどう接するべきか、日本人一人ひとりが真剣に考えなければならないと思います。