菅野完 国家を私物化する怪物

文書改竄問題を政局ネタで終わらせるな

 財務省の文書改竄問題は、単なる政局ネタとして終わらせていいものではありません。これは日本の民主主義を根底から揺さぶる問題です。我々は日本という国家の根幹が揺らいでいるということを真剣に受け止めなければなりません。

 ここでは、森友問題を追い続けてきた著述家の菅野完氏の論考を紹介します。全文は4月号をご覧ください。

議会制民主主義を根底から否定する蛮行

 なるほど、メディアは、あの日以来、「麻生辞任か?」「安倍の関与は?」「昭恵の証人喚問は?」と、これから起こり得るであろう政局の分析で喧しい。佐川前理財局長の答弁がことごとく嘘であったことをあげつらい、麻生財務大臣の任命責任や使用者責任を問うことは確かに重要だろう。だが、今回の件は、そのような「政局ネタ」に終始してよい問題なのか。

 公開された資料を見よ。改竄で消されたものは、安倍晋三、安倍昭恵、平沼赳夫といった政治家の固有名詞だけではない。「本件の特殊性に鑑み」といった、およそ行政文書とは思えない特異な文言だけではない。項目そのもの、章立てそのものがごっそり消えている事例もある。さらに言えば、ページそのものが消失しているものもある。そして改竄前の資料にも改竄後の資料にも、ページ数の記載がない箇所がある。これでは今回公開された資料をもっても「本当にこれが疑惑の全てなのか?」さえ検証できないのだ。つまり、財務省は、項目、章立て、そしてページそのものを消すことによって、事実の改竄のみならず、事実の隠蔽を図っているのだ。

 いや、隠蔽という言葉さえもまだ生ぬるいだろう。なんとならば、森友問題に関する政府答弁は、昨年1年間、改竄後の決裁文書の内容に綺麗に従う方向で徹していたからだ。政府は、「事実が隠蔽された」決裁書の内容に基づき、野党側からの追及に「そうした事実はない」「問題ない」との答弁を繰り返していた。決裁文書に記述そのものがなければ政府答弁が「そのような事実はない」となるのも必然だろう。

 しかし一旦政府答弁として「そのような事実がない」との文言が国権の最高機関たる国会に提出されれば、「事実がない」ことが「事実」になってしまう。つまり、財務省は、書類改竄を行うことで、事実を捏造してしまったのだ。

 これをゆゆしき事態と言わずしてなんと言うのか。国権の最高機関たる国会が、有権者の選良が、行政に資料の提出を命じていたのである。しかし、それに対する行政側からの報告がことごとく嘘であり、嘘であるばかりか、事実の捏造まで行うものであったのだ。

 有権者の代表によって構成される議会が、行政の担当者を選任し、その選任した行政の担当者を適宜引見し、予算の執行状態についての尋問を行うということこそが、議会制民主主義の要諦ではないのか。議会が行政の担当者を国家のサーバントとして選出し、そのサーバントに議会に報告せしめるという行動様式こそが、名誉革命以降、400年にわたって人類が築き上げてきた議会制民主主義のありかたではないのか。だから国会こそが「国権の最高機関」という立場を与えられているのではないのか。

 今般の財務省の書類改竄は、これら人類が営々として守り育ててきた、明治以降の日本人が「憲政」という形で育んできたこうした諸原則を根底から覆す、まさに「蛮行」と呼ぶべき行為ではないのか。もはや今後、我が国の議会では、予算審議のたびに「この資料は真性であるのか?」と一度確認せねばならなくなり、税制審議のたびに「データに間違いはないのか?」と何度も確認せねばならなくなったのだ。これを議会制民主主義の根底からの否定と言わずしてなんと言うのか。……

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