佐藤優 『愚管抄』で危機の時代を読み解く

太平記を読み解く

 現在の日本は危機的状況に直面しています。どのような政治的立場に立とうとも、いまの日本には何の問題もないと考える人はいないはずです。もっとも、日本は過去にも同じような危機に直面してきました。そのため、現在の問題を解決するには、先人たちの知恵に学ぶことが重要になります。

 弊誌はそうした問題意識のもと、作家の佐藤優氏とともに10年にわたって『太平記』を読み解いてきました。ここでは、佐藤氏の最終講義を抄録します。全文は2018年1月号をご覧ください。

現下の危機の本質は「近代の限界」だ

 本日、ついに十年間かけて『太平記』全四十巻を読み終えました。『太平記』はその名の通り太平の世への願いが込められていますが、最後はまだまだ太平の世は遠いようだという形で筆が擱かれていました。

 『太平記』の結論は三十八巻に書かれています。そこでは老武士と下級貴族、僧侶たちが「そもそも、どうしてこんな滅茶苦茶な世の中になってしまったのか」という問題を議論した結果、結局は「分からない」と言ってカラカラ笑うしかない姿が描かれていました。『太平記』は、歴史というものは因果関係が読み解けない複雑系であって、人間の知恵ではどうなるか分かったものではないという考え方を示したのです。

 こういう『太平記』の考え方は「下降史観」に通じるものです。下降史観とは、一言でいうと世の中は時代が経つにつれてどんどん悪くなっていくという歴史観です。理想的な社会は過去にあって、そこからどんどん堕落しているんだということですね。

 ここで世界観と危機の克服について考えることが重要です。前近代(プレモダン)的な下降史観では危機に直面した際、現在の世の中を一新するためには理想的な過去を取り戻すべきだという発想になります。これが「復古維新」の思想です。

 これに対して近代の世界観は正反対になります。近代の世界観は、世の中は時代が経つにつれてどんどん良くなるという「上昇史観」で、理性によって理想的な世の中を作り出すことができるという設計主義、構築主義です。それゆえ危機を克服するモデルは、理性で導き出した未来に求められることになります。

 しかし、このような思想は第一次世界大戦で限界を迎えました。私たちは理性に従った結果、大量破壊兵器を生み出し、楽園どころか地獄を地上に作り出してしまった。理性によって危機を克服するどころから、危機を作り出してしまったのです。私たちは第一次世界大戦で「近代の限界」に直面したのですが、それは理性によって理想的な未来を築くことができるという近代思想そのものが破綻したということなのです。こういう問題意識から当時、「近代の超克」が論じられたわけです。

 その後、人類は第二次世界大戦でふたたび「近代の限界」に直面しました。しかし第二次世界大戦はアメリカの圧倒的な物量によって終了し、戦後はアメリカの下で平和と繁栄がもたらされました。「近代の限界」は資本主義によって棚上げされ、先延ばしにされてきたということです。

 しかし資本主義が行き詰まった現在、私たちは再び「近代の限界」に直面しています。この問題を解決しない限り、現下の危機は克服できないはずです。その意味で私たちは改めて「近代の限界」に取り組み、「近代の超克」を考える必要があるのです。

 その上で重要なのが、かつての「復古維新」の思想なのです。実際、この思想はグローバリズムが行き詰まった状況で出て来ました。目指すべきモデルが同時代(共時性)に求められないため、過去(通時性)に求められたのです。

 ただ目指すべきモデルとして求められた過去は、あるがままの過去ではなく、現在の問題意識によって理想化された過去です。ドイツ哲学者のユルゲン・ハバーマスはこういう目指すべき過去を「未来としての過去」と呼び、ユーゴスラビア内戦を読み解いてみせました。戦後流行したポストモダン思想も、成功したものはプレモダンの発想にもとづいていました。

 そもそも近代的な思考はここ200~300年の流行にすぎません。もともと人間は歴史的にプレモダン的な発想をしてきたのです。それだから近代を超克するためには、近代以前の古典を読む必要があるのです。……