唯一「戦争責任」をとった日本人
── むのたけじさんを師匠と仰いできた佐高さんにお話を伺いたい。
佐高 むのさんは昭和20年8月15日に勤め先だった朝日新聞に辞表を出し、郷里秋田に帰って新聞『たいまつ』を発行し続けた人です。私がむのさんに出会ったのは、1964年の秋、19歳の時でした。『雪と足と』という自伝を読んで、「この日本を変えずにおくものか」という熱気に打たれ、「これはほんものの思想だ」と感動したんです。それ以来、いわば「むの教の信者」というか、私の生き方に深い影響を受けました。
むのさんについて三つ大事な点をあげたいと思います。一つは「戦争責任」です。あの戦争は、確かに政府や軍部が始めたものだったけれども、開戦の機運を煽ったのは新聞だった。新聞は「イケイケドンドン」と太鼓を叩き、むしろ軍部は熱狂する世論に乗っかったという側面もあるわけです。そして戦中は大本営発表を垂れ流し、国民を騙し続けて敗戦まで突っ走ってしまった。
ところが、多くの新聞人は「時代だった」とか何とか言って責任を誤魔化したわけですよね。多くの国民もまた「軍部が」あるいは「天皇が」と、色んな形で責任転嫁をして、他ならぬ自分自身の戦争責任というものを解消させていったわけです。
しかし、むのさんは一記者として自らの戦争責任を感じて辞表を出した。これによって、たった一人でも自ら戦争責任をとった人がいたという歴史が残った。つまり、あの時にむのたけじがいなければ、ほぼ全ての日本人が戦争責任を感じないで平気な顔をして戦後を迎えたという、非常に恥ずかしい歴史になっていたわけでしょう。その意味で、むのたけじという人によって、どれだけ日本人が救われたか分からない。
── むのさんは戦争責任をとった。しかし、現在でも左翼は「軍部が」「天皇が」と言い、右翼は「アメリカが」「コミンテルンが」と言い、自らの戦争責任を転嫁している気がします。
佐高 騙された責任とか、罠にはめられた責任はどうなるんだということですよ。映画監督の伊丹万作は敗戦後に、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」「だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた当然両方にあるものと考えるほかはない」と喝破しています。騙されたという免罪符にすがって騙された責任を受け止めないというのは幼稚に過ぎる。すぐに「だって」と言う子どもと同じですよね。その意味でむのたけじだけが大人だったということです。
── 安倍談話は「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」としていますが、これもある種の責任逃れだと思います。
佐高 高市早苗も「第二次世界大戦時に生まれていない私に戦争責任はない」みたいなことを言っているけど、そうしたら国家民族の責任も全部なくなるわな。保守は伝統を受け継ぐ責任とか、先人が守ってきた国を守る責任とか言うけど、自分が生まれる前の物事に責任がないんだったら、保守の基盤もなくなるじゃないですか。
「いつまで謝ればいいんだ」って言うんだけど、それじゃあ一度でも誠心誠意謝ったことがあるのかと。安倍だって本心では謝りたくないのに嫌々謝った格好をするけど、それは見透かされるから、殴られた方からすれば納得できないということになる。
謝るっていうのは、包容力も含めて、力量がいることなんです。だから子どもは謝らないでしょう。戦争責任をごまかし続ける限り、日本人は「だって」と言って謝らない子どものままだということじゃないですか。
「主語」なき新聞に存在意義はない
佐高 二つ目は、戦争責任とも関係するんだけど、むのさんは「自分」というものに徹底的にこだわった人です。私が「ほんものの思想」だと感じたのは、その文章に、むのたけじという今まさに生きている自分、その生活の底から湧き上がった願いが込められていたからです。
私は「枝葉がなければ花もない」というエッセイが好きなんだけど、むのさんはそこで、「人それぞれの人生に自分らしい花を咲かせて実をむすびたいなら、平凡な『生活のカス』と見える部分を、カスと見えない生活部分と同じように大切にせねばならぬ」と言っています。
読書や執筆のような「花」の部分だけではなく、メシを食ったりウンコ垂れたりという「枝葉」の部分が大事なんだと。こういう自分の底、生活の底をさらい上げて言葉をひねり出すという、その激しさですよね。
その上で、むのさんは「煮られても焼かれても、おれはこれだ、という生き方しか一つの生命にはないのだ」と断言している。むのさんは徹底的に「自分」にこだわった、裏返せば決して「我々」という言葉に逃げ込まなかった。
こういう言葉もありますね。「〈主観〉と〈客観〉とをならべて対置するしきたりがあるが、実在しているものは主観であり、主観だけである。客観なるものは、仮標である。深められて澄んでいく主観のレントゲン写真である」。言いかえると、「私」しか実在しない、「私たち」は仮標にすぎないということです。
つまり、「我々」とか「客観」という言葉に逃げるなということです。その意味で、むのさんは最近の新聞を「与党と野党の主張を足して二で割って、水とコカコーラで薄めたような、そんな社説しか書けない」「新聞そのものに主語がない。そこで働いてメシ食っている連中、主語があるわけないじゃないか」と痛烈に批判しています。たとえば読売新聞の社説とか記事とかいうけど、そこに記者個人の主観が入らなければ何の面白味もない。記者は自分を消すことばっかりやっている。いや、もともと自分というものがないんだけれど、そのもともとない自分をさらに消している。
こういう空っぽで、毒にも薬にもならない、屁みたいな文章が書き散らかされている。そういう状況の中で、やっぱりむのさんの文章にハッとさせられるというのは、そこにむのたけじという消すに消せない個人が刻印づけられているからなんですよ。
── 誰が読売の社説を書いているのか、その「誰」が抜け落ちているということですね。
佐高 いや、読売の場合はナベツネが全部支配しているから、読売にはナベツネという主語がある(笑)その一点に限っては読売を見習うべきですよ。……
以下全文は本誌10月号をご覧ください。