高橋公純 私が聞いた三・一独立運動

三・一独立運動とは何か

 本日3月1日に、韓国では三・一独立運動から100年を記念する行事が予定されています。現在の日本では三・一独立運動のことはほとんど忘れられていますが、韓国にとってはきわめて重要な日です。現在の日韓関係を打開するためにも、日本人もまた三・一独立運動について知る必要があります。

 ここでは弊誌3月号に掲載した、日本出身の僧侶として2004年に韓国に帰化し、韓国人被爆者とその家族の支援に取り組んできた高橋公純氏のインタビューを紹介します。全文は3月号をご覧ください。

「三・一の話は思い出したくもねえ」

―― 高橋さんは日本出身の僧侶として2004年に韓国に帰化し、韓国人被爆者とその家族の支援に取り組んできました。韓国では、三・一独立運動はどう捉えられているのですか。

高橋 韓国では3月1日は「三一節」という祝日とされています。三・一運動から百年に当たる今年は、ソウルでの政府主催の記念式典をはじめ、全国各地で行事が開催される予定です。

 三・一運動のシンボルは、柳寛順という少女です。三・一運動の1か月後から韓国中部の天安でも独立運動が起こり、並川市場で独立宣言文が読み上げられ、柳寛順も演説しました。その後、住民たちは太極旗を掲げながら行進しましたが、憲兵隊の弾圧をうけました。柳寛順の父母は射殺され、彼女自身も逮捕・起訴された末、翌年10月にソウルの西大門監獄(刑務所)で17年の生涯を閉じました。

 2000年頃、私は柳寛順の故郷である天安市を訪ねました。並川市場跡からほど近い畑にいたお百姓さんに「三・一運動で犠牲になった先祖はいましたか」と尋ねると、そばでしゃがんでいる70歳くらいのお婆さんを差して「あの人の家には犠牲者がいる」と教えてくれました。

 それで「なあ、ハルモニ。三・一運動のとき」と言いかけると、「日本人か」という怒気を含んだ声に遮られました。私は「そうです」と言って頭を下げてから、再び顔を上げてハッとしました。ハルモニは私のことを、怒りを込めた目、涙がこぼれそうな目、鋭い矢が飛んできそうな目で、瞬きもしないで睨んでいたのです。

 私がその場でうろたえていると、ハルモニは深く沈んだ声で「三・一の話は思い出したくもねえ。語りたくもねえ」と言ったきり口を閉ざし、そのまま私の顔をジーッと睨み続けていました。韓国の人々、とりわけ三・一運動の犠牲者の遺族がどれほど怨んでいるのか……それを痛感させられました。

―― 韓国支配の歴史は、現在の日韓関係に大きな影を落としています。

高橋 戦前の日韓の「負の歴史」は、1910年の韓国併合からの36年間ではなく、1875年の江華島事件から1945年の敗戦までの70年間として見るべきだと思います。この間、日本人は朝鮮の人々に何をしたか。

 1875年の江華島事件(死者35名)、1895年の閔妃暗殺、1905年の韓国保護条約から1910年の韓国併合までの間に起きた抵抗運動の弾圧(死者約1万8000名)、1919年の三・一独立運動とその後の独立運動の弾圧(それぞれ死者約7500名、約2300名)……。獄死者を含めれば犠牲者の数はさらに増えます。

 日本国内でも1923年に朝鮮人虐殺(死者約6000名)が起きましたが、これは国家権力による弾圧ではなく一般国民による私刑であり、余りに凄惨です。なお、犠牲者の数は日韓両国で異なりますが、ここでは韓国側が主張する人数を挙げました。

 江華島事件以来70年間の事件を知らなければ、過去の歴史が現在の日韓関係に与えている影響を正しく見ることはできないと思います。……