「古今和歌集」は、篁の隠岐配流について、次の二つの和歌を伝えている。
隠岐国に流され侍りける時に詠める
思ひきや鄙の別れにおとろへて
海人の縄たきいさりせむとは
(こんな日々を誰が予想しただろう。都に別れ、遠い鄙の暮しにやつれ果て、漁師の使う縄をたくし寄せて漁をする身になろうとは)雑歌所収
隠岐国に流されける時に、船に乗りて出で立つとて、京なる人のもとに遣はしける
わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと
人にはつげよ海人の釣り舟
(大海原の上を、これから経て行く多くの島々めざして漕ぎだして行ったと、都の人々に伝えてくれ、漁師の釣り舟よ) 羇旅歌所収
いつの時代も政争があり、破れて政治の表舞台から退場を命じられる政治家の悲哀は、平成も平安も同じであろう。後者の歌は藤原定家の撰による小倉百人一首にも採られているが、定家は小野篁の歌に、隠岐へ配流されたかつての主君・後鳥羽上皇への想いをも託したのだろう。
「古今和歌集」に限らず、日本の「飛花落葉に心を翳らせ、恋の不首尾を嘆き、生別死別をかなしみ悼んだ人たちの生活の記録」は、和歌という形式に凝縮されて伝えられてきた。
だが、今も昔も変わらない常なるものに触れたく思っても、現代の我々が和歌の世界を鑑賞するのは至難の業である。
仄聞するに、和歌を本当の意味で鑑賞するには和歌を実作しないといけないとも言う。ハードルはますます高い。
和歌という森に分け入るには、優れた案内役が必要である。それも、急ぎ足で観光名所を見せて通り一遍の解説を付け加えるような観光ガイドでは不十分で、森の歩き方を教えてくれ、自力で森の美しさを発見できるように導いてくれる案内役が必要なのだ。
本書は決して「古今和歌集」の入門書ではない。著者が「古今和歌集」のそれぞれの歌に出会い、そこから紡ぎだされた思索、あるいは、和歌の配列の妙に、編纂者の「常と無常」を捉えた透徹したまなざしを見出す様子が描かれている。
いわば、読者は著者の後ろを一生懸命ついていくのだが、確かに、時折、著者と同じ風景が見えた時には、大きな感動がある。
たとえば、この小野篁の歌が、雑歌と羇旅歌に分けて収められていることについて、「羇旅歌だけの篁では、古今集はきれいごとに終わってしまう。雑歌の部がなかったら人間の心の事実はどこにおさめられていったろう」と、著者は指摘する。
「日本海に浮かぶ島に追われて暮らさねばならぬ日々は、確かにありふれぬ日々ではあったろう。けれども、本来ならば多くの人の不仕合わせでない暮しのためにつくられた『法』のもとでの、『順法』と『違法』との境界について、多少なりとも迷いや悩みを経験している者なら、篁の嘆きは決してありふれぬものとはいえないと思う。それは篁の処分の当、不当に関してではない。『法』をつくるのも、『法』を運用するのも人間であれば、身分を問わず、その限界の外にはあり得ない個人の生涯に思い及ばせる象徴性のゆえにである」(67頁)
古今集の歌人たちを、著者はあたかも同時代人のように感取しており、彼らが受ける世の中の理不尽や、愛別離苦の苦しみをわが事として噛み締める。そしてそこに何時の世にも易わらざるものを見出す。
不易と言い流行と言うが、不易を知らなければ何が流れ行くものかは判然とはわからない。
幸い、わが国には先人から歴史が途絶えることなく受け継がれてきており、その歴史を貫く不易の眼差しも、物語や和歌という形で伝えられてきている。
世の中の先行きが不透明である現代であるからこそ、古典の不易の眼差しから現代という流行の奥底を見通す目を身につけたい。
その結果、「消えざるものはただ誠」と観ずる人もあろうし、「常なるものは無常ということ」と観ずる人もあろう。それは心心であるが、いずれにせよ、現代ほど不易なるものの上に足を踏みしめねばならない時代はない。