藻谷浩介 里山資本主義が日本社会を救う

「国際競争」を疑え!

―― グローバル経済の荒波にどう対処すればよいか。

藻谷 今、日本人全体が「国際競争」という言葉に呪縛されている。何が何でも国際競争力をつけなければならないという強迫観念にとらわれている。なんとしても世界を席巻するマネー資本主義に適応しなければならないと洗脳されているのだ。

 しかし冷静に考えれば、ほとんどを内需でまかなっている現在の日本の産業構造の中で、文字通りマネー資本主義に関わっている人の割合は少ない。とくに、国際競争を煽る日本の言論界が国際競争から最も無縁であるというのは皮肉なことだ。国際社会では一円も稼げない人々が国際競争力の強化を訴えるというおかしな状況になっている。

 とりわけ問題なのは、マスコミ、世論が実際の数字をベースとせずに、印象だけで悲観論を振りまいていることだ。報道とは違って、日本製品の多くが着実に売れ続けているし、海外投資も多くの金利配当収入をもたらしている。また、バブル崩壊以降の20年間だけでも300兆円ほどの経常収支黒字が外国から流れ込んでいる。

 そもそも日本人は悲観論が好きなのではないかと思う。昨年のロンドン・オリンピックで日本が獲得した金メダルは7個、これに憤慨している人が多いので、講演で「そうですね、バルセロナの時は12個でしたからね」と言うと、「そうだ、日本の国力はこんなところでも落ちている」と同意する。本当は3個なのだが、「日本はだんだん悪くなっている」という印象が先行して、事実を確認するということを怠ってしまう。

 そして、事実に基づかない「国際競争に乗り遅れるな」という思い込みこそが、現在の日本の根底にある。

―― 肥大した資本主義は、資本主義構造に合致しないものを排除する性質を持っている。一昔前から言われる「勝ち組」「負け組」も、資本主義のゲームでの落伍者が人間として失格というような意味で使われるようになったのではないか。

藻谷 すべてが「競争」というものさしで図られるようになり、否応にかかわらず、全日本人が競争原理に駆り立てられている。これは養鶏場のブロイラーのようなものだ。ひたすら卵を生み続けることを求められ、卵を産めなくなったら、つまり資本主義的価値がなくなれば死ぬしかないという世界だ。

 典型的な「手段と目的の取り違え」で、そもそもよりよき生活のために競争という手段があったのだが、競争それ自体が目的と化している。

 資本主義は欲望を肥大化し、肯定するイデオロギーだ。貨幣は欲望を満たすためにあるのだが、貨幣を積み上げることそれ自体が目的と化してしまう。この貨幣積み上げ競争こそが世界を覆うマネー資本主義の本質だ。

―― そのような不毛な競争に日本人全員が巻きこまれている。

藻谷 私は国際競争やマネー資本主義そのものを否定しているわけではない。ある一定程度、資本主義の勝者も必要だし、マネーが好きな人は大いにやれば良い。私が指摘しているのは、日本人全員がマネー競争に奔走しなくても良いということだ。競争などしたくない人が、必要以上にカネを欲することなく、幸福に生きていけるサブシステムがあるはずだ。

「里山資本主義」が人間らしい生活を担保する

―― 今回、藻谷氏とNHK広島取材班の共著で『里山資本主義』(角川oneテーマ21)を上梓された。ここで提示されているのがまさに、よりよく生きることを目的とする、古くて新しいシステムだ。

藻谷 3・11の震災直後、一時的に電気が停電し、スーパーなどで食料などが欠乏したことがあった。あの時に多くの日本人は気づいたはずだ。お金と引き換えに水、食料、燃料という生存に必要な不可欠な物資を送ってくれる複雑なシステムそのものが麻痺してしまえば、いくらお金があっても何の役にも立たないのだ。「里山資本主義」は貨幣経済に依存しないサブシステムを構築しておこうという考え方だ。

―― 具体的に、山陰地方の取り組みを紹介している。ありあまる廃材を利用したバイオエタノール発電、老人たちが消費しきれない家庭菜園の作物を利用したレストランなど、実際の成功例だ。

藻谷 もちろん、こうした取り組みは十分な自然エネルギーを供給でき、互いに不要な食料を融通しあうような人口規模の里山であるからこそうまく行っているという側面はある。

 だが、この里山資本主義の考え方は、現在のマネー経済だけでなく、日本社会が抱える地域の過疎化、少子化と急激な高齢化という問題を克服する可能性も秘めている。……

以下全文は本誌11月号をご覧ください。