【巻頭言】自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ! 本誌主幹・南丘喜八郎

 明治四十四年二月一日、東京・本郷の第一高等学校の講堂は数百人の学生で溢れていた。一高弁論部が主催する演説会が間もなく始まるのだ。壇上には「演題未定 徳冨蘆花」と墨書されている。蘆花に講演を依頼したのは河上丈太郎(戦後の社会党委員長)、河合栄次郎(後の東大教授)ら一高弁論部の面々である。
 河上が「演題未定」と書かれた紙を破ると、そこに「謀叛論」の文字が現れた。蘆花は推敲を重ね、謀叛論の稿を練った。会場は一瞬ざわめいたが、蘆花が黒紋付き姿で登壇すると、一転緊迫した空気があたりを支配した。

 演説会に先立つ一月二十四日、大逆事件の幸徳秋水ら十二名が東京・市谷の東京監獄で処刑され、世上は騒然としていた。内務大臣の原敬は事件は謀略だと見抜き、日記に「今回の大不敬罪は官僚派が之を演出せりと云うも弁解の辞なかるべし」と記した通り、官憲によるデッチ上げだった。
 蘆花は判決後、「国民新聞」社長の兄蘇峰を通じ桂太郎首相に助命嘆願を働きかけたが、蘇峰は動かない。同郷(肥後)の「東京朝日」主筆の池辺三山に、死刑確定者の助命嘆願書「天皇陛下に願い奉る」を掲載して欲しいとの手紙を出す。だが、手紙を投函した前日、すでに死刑は執行されていたのだ。
 蘆花の胸裏には、乱臣賊子として処刑台の露と消えた幸徳秋水の無念が渦巻いていたであろう。

 壇上の蘆花が「僕は武蔵野の片隅に住んでいる」と静かに語り始めると、満場水を打ったように静まり返った。
蘆花の家から約一里程行くと、井伊直弼の墓がある豪徳寺、その先の丘には吉田松陰を祀る松陰神社がある。
 「松陰はもとより醇乎として醇なる志士の典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛骨の好男児、朝に立ち野に分れて斬るの殺すのと騒いだ彼らも、畢竟今日の日本を作り出さんがために反対の方向から相槌を打ったに過ぎぬ」
 明治維新に際し、局面打破を図った勤皇攘夷の志士は時の権力から云えば謀叛人であったと語った蘆花は、明治の今日も新たな吉田松陰が必ず出てくるに違いないと続ける。
 そして「諸君、僕は幸徳君らと多少立場を異にする者である」と前置きした後、演説の核心を語り始める。
 「彼らは、もとは社会主義者であった。富の分配の不平等に社会の欠陥を見て、生産機関の公有を主張した。社会主義の何が恐い。世界の何処にでもある。
 諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見做されて殺された。諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。肉体の死は何でもない。恐るべきは魂の死である。
 人が教えられたる信条のままに執着し、言わせらるる如く言い、させらるる如く振舞い、型から鋳出した人形の如く形式的に生活の安を偸んで、一切の自立自信、自化自発を失う時、すなわちこれ霊魂の死である。我らは生きねばならぬ。生きるために謀叛しなければならぬ」
 
 “新しいものは常に謀叛だ!”
 これほど大胆で過激な大逆事件裁判の批判、幸徳秋水擁護論は他にはない。一高校長の新渡戸稲造の責任問題に発展したが、譴責処分で収まり、蘆花自身には何の咎めもなかった。
 この蘆花の演説の影響は大きかった。夏目漱石は文部省からの博士号授与を辞退して、「東京朝日」紙上に「博士でなければ学者でない様に、世間を思はせる程博士に価値を賦与したならば、学問は少数の博士の専有物となつて、僅かな学者的貴族が、学権を掌握し尽すに至ると共に、選に洩れたる他は全く閑却されるの結果として、厭ふべき弊害の続出せん事を余は切に憂ふるものである」と書いた。
 漱石の博士号辞退もまた、「謀叛」であった。

 いま政権を壟断する自民党には勿論、一人の「謀叛人」もいない。他の政党にも、官界、言論界にもいない。
 嗚呼! 「すなわちこれ霊魂の死である」。蘆花の嘆きが聞こえてくるようだ。