我が国はいま肇国以来の危機に直面している。その危機とは、尖閣諸島、竹島などの領土問題ではない。仮に一部領土が奪われることがあっても、国家が滅びることは決してない。しかし、日本を日本たらしめている中心存在が無くなる時、日本国は確実に滅亡の道を辿ることになる。その中心存在とは何か。我が国が古来から戴く万世一系の天皇である。その日本国の根底に存在し続けてきた皇統が、いまや断絶の危機に瀕している。
明治元年二月十五日、鳥羽伏見の戦いで敗れた慶喜が江戸へ逃れた直後、泉州堺で事件が起きた。朝命で堺の警備に当たっていた土佐藩兵が、同地に上陸したフランス兵と衝突し、銃でフランス兵十三名を射殺したのだ。
フランス公使ロッシュは明治政府に厳重な抗議を申し入れ、賠償金支払いの他、犯人の土佐藩兵を死刑に処すことを要求した。政府は最終的にフランスの要求を容れ、土佐藩兵二十人が死刑に処せられることになる。彼らの内四人が士分、十六人の身分は足軽だったが、彼ら十六人は犯罪人として「打ち首」にされるのは承知できない、武士として切腹を仰せ付けられたいと強硬に申し出て、了承された。
さて、愈々切腹当日の二月二十三日である。堺の妙国寺で、明治政府代表とフランス公使を筆頭にしたフランス側立会人を前に、土佐藩士が次々に切腹する。
〈呼び出しの役人が「箕浦猪之吉」と読み上げた。寺の内外は水を打つたように鎮まつた。箕浦は黒羅紗の羽織に小袴を着して、切腹の座に着いた。介錯人馬場は三尺隔てて背後に立つた。総裁宮以下の諸官に一礼した箕浦は、世話役の出す白木の四方を引き寄せて、短刀を右手に取った。
忽ち雷のやうな声が響き渡つた。「フランス人共聞け。己は汝等のためには死なぬ。皇国のため死ぬる。日本男児の切腹を好く見て置け」と言つたのである。箕浦は短刀を棄てて、右手を創に挿し込んで、大網を摑んで引き出しつつ、フランス人を睨み付けた。
馬場が刀を抜いて項を一刀切ったが、浅かった。「馬場君。どうしたか。静かに遣れ」と箕浦が叫んだ。馬場の二の太刀は頚椎を断って、かつと音がした。箕浦は又大声を放つて、「まだ死なんぞ、もつと切れ」と叫んだ。此声は今までより大きく、三丁位響いたのである。初から箕浦の挙動を見ていたフランス公使は、次第に驚駭と畏怖とに襲われた。〉(森鴎外『堺事件』)
箕浦猪之吉はこの時二十五歳。桜田門外の変のあった当時、江戸に在った山内容堂の侍讀として仕え、書をよくし、詩歌も嗜む文武両道に秀でた若武者だった。切腹を前に箕浦は、見事な七言絶句の辞世を書き残している。
妖氛を除却し国恩に答う 決然豈に人言を省す可けんや 唯大義をして千載に伝えしむ 一死元来論ずるに足らず
箕浦ら二十人の内、十一人までが凄惨な切腹を果たした。十二人目が切腹の座に着いた時、立会人のフランス公使らが慌しく立ち去った。この為、残り九人の切腹は中止となった。
ここで箕浦の叫びを想い起こそう。彼はこう言ったのだ。「己は汝等のためには死なぬ。皇国のため死ぬる」と。
前年の慶応四年十二月九日、戊辰戦争の大混乱の中で「王政復古の大号令」が発せられたが、幕藩体制が残存している時に、藩の枠を超越する「皇国」という古来からの伝統的観念が、土佐藩兵の間に再び生まれていたのだ。
我が国は国家存亡の危機に臨むと、必ず天皇の存在が顕われてくる。
しきしまの大和心のをゝしさは ことある時ぞあらはれにける
大東亜戦争に敗れ、茫然自失した我が国の為政者は、マッカーサーの皇統断絶という陰謀の片棒を担がされた。彼は天皇の戦争責任を問わず、天皇を巧妙に占領政策の遂行に利用し、長期的には皇統断絶を画策する。マッカーサーは日本国憲法と皇室典範に将来、皇統を断絶に追い込む仕掛けを埋め込んだ。
だが、吉田茂をはじめ為政者に、この陰謀に気づく者はいなかった。マッカーサーは、直ちに昭和天皇の直宮三家を残して十一宮家を臣籍降下させ、華族制度を廃止したが、これは男系男子の根絶を狙ったものだ。
このままでは、必ず皇統は断絶する。その時、日本は日本でなくなる。この状況を招いたのは我々自身である。
「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、國の大本を忘れ、國民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自らの魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た」(三島由紀夫『檄』)
いま三島由紀夫の叫びが、耳の底に響き渡る。