南丘喜八郎 高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候

 天正十年(一五八二)五月、明智光秀は信長から備中高松に毛利攻めの援軍として赴く命を受けた。この時、秀吉は毛利軍の前線を撃破、進軍を続け、備中の要衝高松城を水攻めによる包囲戦の最中にあった。明智光秀は出陣の準備を整えたが、この時の光秀の心境を、秋山駿は著書『信長』に、次のように書いている。

 「信長はいま、毛利を圧倒し中国を征服しようとしている。必ず四国、九州も征服するであろう。信長の戦争の仕方を見れば、そのとき、日本がかつて知らぬ怪物的な独裁者が出現してしまうことになる―光秀は戦慄を感覚したろう。さらに、秀吉が中国か九州を、家康が東海を、滝川が関東を、勝家が北国を、信孝が四国を、それぞれ支配してしまったらどうなるか。光秀は自分の出身を棚上げして思う。それでは、まるで氏素性の知れぬ無教養なごろつき共が日本中を支配することになる、と。―戦慄が走る。こんなことを許してはおけぬ!」

 「惟任日向守、中国へ出陣として坂本を打立ち、丹波亀山の居城に至つて参着。二十七日に亀山より愛宕山へ仏詣、神前へ参り、太郎坊の御前にて二度三度迄鬮を取りたる由申候。二十八日、西坊にて連歌興行、ときは今あめが下知る五月哉 光秀/水上まさる庭の松山 西坊/花落つる流れの末に関とめて 紹巴 か様に、百韻仕り、神前に籠置き、五月二十八日、丹波亀山へ帰城」(『信長公記』)

 この連歌の会において、光秀は出された粽を皮ごと食べたり、里村紹巴に本能寺の溝の深さは何尺かと尋ねたり、訝しげな言動が見られたと云う。

 「ときは今あめが下知る五月哉」─光秀の公然たるクーデターの決意表明である。

 「夜、大江山を度り、老坂に至る。右折すれば即ち備中に走くの道なり。光秀乃ち馬首を左にして馳す。士卒驚き異しむ。既に桂川を渉る。光秀乃ち鞭を挙げて東を指し、颺言して曰く、『吾が敵は本能寺に在り』と。衆始めてその反を知る」(頼山陽『日本外史』)

 本能寺溝幾尺ぞ 吾大事を就すは今夕に在り
 茭粽手に在り 茭を併せて食ふ   四簷の梅雨 天墨の如し
 老の坂西に去れば 備中の道    鞭を揚げ東を指せば 天猶ほ早し
 吾が敵は 正に本能寺に在り    敵は備中に在り 汝 能く備へよ(頼山陽)

 光秀は武将等に「信長を討つ」と、クーデター計画を打ち明けたのだ。

 光秀率いる一万三千の軍勢が本能寺に向け出立する。信長は五月二十九日午後四時頃、小姓衆二、三十人を召し連れただけで本能寺に入った。

 「是は謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候」

 光秀の力を高く評価していた信長は、瞬時に死を悟った。信長四十九歳だった。

 本能寺の変より九年前の天正元年、毛利氏の外交僧安国寺恵瓊は書状で信長の横死を予告していた。曰く、

「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候、藤吉郎さりとてハの者ニて候」

 安倍政権は遮二無二、対米従属の道を直走っているように見える。「万機公論に決す」ることなく、ただ只管自らを恃み、「戦争の出来る普通の国」に突き進んでいる。彼の眼中には、崩壊の危機に瀕しようとする農村共同体や貧困に泣く庶民の姿など無きに等しい。秋山駿は著書『信長』に記す。

 「この男は、おぎゃあと生れてから死ぬまで、ただただ戦争の時代を生きた。一秒の休みもなしに彼の生を取り囲んでいたのは、戦争という現実である。彼は、現実つまり戦争の声を、全身で聴きながら生きた」

 安倍総理に信長の「天才」はない。まして、「是非に及ばず」と一言に身を棄て去る「覚悟」はない。

 恵瓊の予告の如く、安倍総理は「高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候」。