山崎行太郎×辛淑玉 安倍総理は「エセ保守」だ 

 昨今、わが国のメディアでは「嫌韓論」が猛威を奮っている。事ある毎に韓国バッシングが起こり、日本国内で事件が起こった際も「犯人は在日朝鮮人だ」などという声が飛び交う。果たしてこれが健全なメディアの姿なのか。韓国批判を繰り返す人々は、本当に朝鮮半島や在日朝鮮人の問題を理解しているのか。

 かねてからメディアの韓国バッシングを批判してきた哲学者の山崎行太郎氏と、ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク「のりこえねっと」共同代表である辛淑玉氏に、嫌韓論から安倍政権の現状、在日社会の問題点に至るまで、縦横無尽に対談していただいた。

揺れる「右」と「左」

山崎 辛淑玉さんのことは昔からテレビで拝見していました。今回対談するということで、辛さんの自伝的な作品『鬼哭啾啾』や、野中広務さんとの対談本『差別と日本人』などを読んできたのですが、いやあ凄まじい人生というか、経歴というか。

 僕は文藝評論の世界で仕事をしてきたこともあって、在日朝鮮人の作家である柳美里や竹田青嗣などと交流がありました。だから在日の問題も少しはわかっているつもりでしたが、辛さんの本を読んで初めて知ったこともたくさんありました。

 最近、保守論壇では嫌韓論がブームになっています。また、安倍総理は河野談話の検証を行い、北朝鮮との拉致交渉も進めています。そうした状況の中で、日本社会は改めて朝鮮半島の問題、在日朝鮮人の問題、また保守派は朝鮮半島にどう接するべきか、といったことについても見直す必要があると思います。

 山崎さんと佐高信さんの『曽野綾子大批判』を読んで、是非山崎さんとお話ししたいと思っていたんです。

 私は正直に言うと、学校教育というものをきちんと受けたことがありません。ある時期まで漢字の読み書きができず、本を読むという経験もほとんどありませんでした。今やっと本を読むようになって、「ああ、あの時起こったことはこれだったんだ」とわかることが多くなりました。

 私にとって「保守」というのは、いつも私たち「在日」を排除する人たちでした。でも、今から考えてみると、私が30年前に仕事を始めた時、最初に名乗り出てサポートしてくれたのは、当時の自民党の人たちなんですね。

 最近書店に並んでいる嫌韓論の本などは気持ち悪くて読んでいませんが、保守の中にも、天皇は好きだけど在日も一緒に日本で生きていこうという人たちもいます。私たちを排除し叩くのも保守で、一方、手を差し伸べてくれるのも保守だったりして、あれれ、と感じたりしていました。

 その一方で、私をよく集会に呼んでくれたいわゆる左派の人たちが、いざ在日の問題、朝鮮人の問題になった時には、サーッと引いて誰もいなくなったということもありました。こういう言い方はあまりにも雑ですが、その時は、私の中では、彼らの「いい人」キャンペーンに使われたんだなぁと感じました。

 だから、私もここ15年くらい、自分が今まで理解していた「右」や「左」といった考えではいけないんだなってことを感じています。今日は、山崎さんにそうした問題について基礎的なところからレクチャーしていただきたいと思っています。

安倍総理は「エセ保守」だ

 まず「保守」について聞きたいのですが、今の自民党には「ナチスに学べ」とか「デモはテロと変わらない」などと発言する人がいますけど、あれも保守なんですか。

山崎 僕は「保守」を定義することはできないと考えています。「保守とは○○である」と定義して型にはめてしまうと、それが固定化し、イデオロギー化してしまうと思うんです。

 例えば、最近「真正保守」と自称している人たちは、「中国を批判するのが保守である」、「韓国バッシングをするのが保守である」などと考えているようですが、これこそ保守のイデオロギー化です。中国や韓国を批判しただけで保守になれるのなら、誰でも保守になれますよ。こんなものは保守でも何でもありません。僕も保守を自任していますが、見ていて恥ずかしいです。

 僕が『保守論壇亡国論』の中で取り上げた小林秀雄や江藤淳などといった昔からの保守、僕は最近の真正保守や新保守に対抗して「古典保守」と呼んでいるんですが、彼らは隣国を無暗に批判したりはしませんでした。

 その意味で言うなら、今の自民党の政治家たちの多くが「イデオロギー保守」、つまり「エセ保守」ですね。安倍総理も「エセ保守」だと思います。彼も中国や韓国を批判するのが保守であると思い込んでいるフシがある。

 エセ保守の問題点は、物事を深く考えないことです。彼らの思考は固定化してしまっており、一度「中国や韓国は叩かなければならない」と思い込めば、もうそれ以上物事を考えようとしません。

 このところ、安倍総理は集団的自衛権をはじめ重要な案件に次々に手を出していますが、見ていて不安になりますね。吉田茂や佐藤栄作などであれば、あんなに軽々しく手を出さなかったと思います。彼らであれば、自らの政治生命を賭けて一つの政策をやり抜き、なおかつきちんと責任を取ったはずです。ところが安倍総理のようなエセ保守は何にでもすぐに手を出し、政治生命を賭けようともしません。政治生命を賭けていないから何にでも手を出すことができると言ってもいいかもしれない。彼の言動は恐ろしく軽いんですよ。

 私はこの間、自分のコラムで「安倍は自決せよ」と書いたんです。安倍は帝国日本の恥さらしの孫ですよ。戦陣訓には「生きて虜囚の辱を受けず」とあったのだから、岸信介は囚われた時点で自決しなければならなかったはずです。そうすれば安倍もいなかったんだと書いたら、物凄い批判がきました。

 だけど、あれだけの自国の民を殺しておいて、あれだけの民を進んで自決させておいて、リーダーとして恥ずかしくないのでしょうか。武士道に照らしても、おめおめと生き残るなんて許されないことだと思うんですけど。

山崎 安倍総理は時々岸信介の話をすることがありますけど、それは彼にとって都合の良い岸信介像ということなんでしょうね。

 例えば、戦後になって「私の親は戦争に反対していた」と言う人がたくさん出てきましたよね。しかし、それほど多くの人たちが戦争に反対していれば、戦争は起こらなかったはずです。当時の日本国民は、間違いなく戦争に賛成していたんですよ。

 家の物語を作るわけですね。

山崎 そうです。従軍慰安婦についても、「日本軍は従軍慰安婦を連れていたが、私のお父さんは慰安所を利用しなかった」などと言うわけです。もちろん中にはそういう人もいたと思いますが、多くの人たちがそうでなかったはずです。……

以下全文は本誌8月号をご覧ください。