イスラム国によるテロが頻発している。テロの背景には、自らの信念のためには命を捨てることも辞さないという「人を殺す思想」がある。彼らは自らの命を賭けているからこそ、人の命を奪うことも躊躇しないのである。
戦前の日本にも「人を殺す思想」は存在した。しかし戦後になり、我々はこの思想から目を背けてきたため、この思想を理解することが困難になっている。なぜ「人を殺す思想」は力を持つのか、我々はこの思想とどう向き合うべきか。作家の佐藤優氏と哲学者の山崎行太郎氏に対談していただいた。
「人を殺す思想」とは何か
山崎 佐藤さんは以前から「人を殺す思想こそ本物の思想である」とおっしゃっていますね。『共産主義を読みとく』の中では、廣松渉の哲学の最大の魅力は、それが知を愛好することに留まらず、「生き死にの原理となる思想」だったことだと書かれています。
僕も全く同感です。僕の考えでは、哲学的思考とは、起源にまで遡る過激な思考、あるいは第一原理まで問い直す純粋なる思考のことです。これは最終的に「生きるか死ぬか」にまで行き着きます。このような「生き死にの原理となる思想」だからこそ影響力を持つのであって、逆に、生き死にの原理とならないような思想は、いくら理論的に優れていたとしても何の影響力も持ちません。
最近の論壇やジャーナリズムには、ポスト・モダン的な思想家やネット右翼的な思想家が溢れています。しかし、そこには「生き死にの原理となる思想」はなく、権力や流行への迎合や、安易な転向ばかり見られます。彼らは「生き死にの原理となる思想」を正面から受け止めることができず、軽薄な思想を撒き散らしているだけです。
これは政治運動にも見られる傾向で、例えば学生団体「SEALDs(シールズ)」は、過激派をデモから排除していると言われていますよね。確かに過激派を排除すれば一般の人たちもデモに参加しやすくなり、参加者は増えるかもしれない。しかし、過激派を排除すれば、デモの力は間違いなく弱くなります。現に、彼らは安保法案の強行採決を止めることができなかったし、強行採決された後はデモの参加者も減っています。
その一方で、最近では人を殺しかねないような思想も表れています。在特会(在日特権を許さない市民の会)の会長を務めていた桜井誠の思想がそうです。学者やジャーナリストなどは彼を排外主義者だと批判し、何とか抑え込もうとしています。僕も桜井さんの排外主義的な主張には賛同できないけれども、しかし彼を支持する人たちが一定数おり、影響力を持っていることは否定できません。彼を忌避して遠ざけるだけでは何の解決にもならないと思います。
佐藤 言葉と力、あるいは言葉と命という問題ですね。要するに、言葉には本物の言葉と偽物の言葉というものがあって、それが稚拙であるかどうかはあまり関係ないんですね。例えば、イエスは教育水準から考えると中の上くらいでした。最近のアメリカのイエス論研究では、イエスは文字が書けなかったのではないかと主張している人もいるくらいです。それでもイエスの言葉は本物だから、今日も力を持っているんですね。
その意味で言えば、桜井誠さんも思想家としては本物なんですよ。彼の思想から「人を殺す思想」が出てくるまでは、あと一歩ですから。彼を見下げたような形で捉えるのは全くの間違いです。なぜ彼に人の魂を掴む力があるのか、その力を解析することが必要です。
この問題は別の言い方をすれば、近代の言語空間の中で我々が不問にしてきた「話者の誠実性」ということだと思います。つまり、自分の言っていることとやっていることの間の乖離を極力小さくする努力を怠ってはいけない、ということです。
僕にしても山崎さんにしても、例えば百田尚樹さんや曽野綾子さんに反発を覚えるのは、彼らの「話者の誠実性」に疑問を感じるからだと思います。もし曽野さんがキリスト教徒なら、私はキリスト教を信じていないと思うんですよ。彼女の言っていることはキリスト教と結びつきません。何か別のイデオロギーなんです。
百田さんにしても、もし彼が安倍総理との関係がなければ、『永遠のゼロ』は反戦小説、左翼小説として読まれていた可能性も十分あると思いますよ。だって、あの小説は完全に生命至上主義、個人主義の立場に立っていますから。とすれば、彼にとってあの小説は二義的なものに過ぎないということです。……
以下全文は本誌1月号をご覧ください。