西部邁 「フィクション」としての天皇

秋篠宮さまは皇太子の称号に難色を示したのか

 退位をめぐる政府の有識者会議から、秋篠宮さまを現在の皇太子さま並みの待遇とし、「皇嗣殿下」などの称号が提案されたことに対して、秋篠宮さまは周囲に、自身が皇太子として育てられていないことを理由に、皇太子の称号に難色を示したと報道されています(5月23日付毎日新聞)。
 
 生前退位に関しては様々な報道が飛び交っており、どこに真実があるのか定かではありません。我々はこの間の一連の報道をどのように受け止めるべきか、考える必要があります。

 ここでは、弊誌6月号に掲載した、評論家の西部邁氏のインタビューを紹介したいと思います。全文は6月号をご覧ください。

なぜ天皇を論ずるのか

── 日本にとって天皇とは何かという問題についてお話を伺いたいと思います。

西部 強烈に覚えているのは、敗戦の翌年、僕は7歳だったんだけど、兄と一緒に「天チャン」と叫んでいたら、親父からバンバンバンバンバーンと往復ビンタをかまされて、「不遜だ」という重い一言を聞かされたことです。「フソン」なんて言葉は初耳でしたけど、この世界には「やんごとなき」存在があり、それは気安く罵っていいものではないんだと自ずと分かりました。それから私にとって天皇は生涯の関心事になったわけです。

 ただ僕の周囲にいる戦後生まれの人たちには、「天皇に関心が持てない」という人が多かった。この「関心」の位置づけですがね……。

 そもそも国家がいくつかの選択肢の中から特定の政策や戦略を選ぶためには、必ずや何らかの価値基準が必要になります。では、その価値がどこから来るかと言えば、より上位の価値に由来するわけですが、より上位の価値のより上位の価値……と価値の由来の根源をたどっていけば、論理必然的に至上絶対の価値、つまり宗教的なるものに行き着かざるをえなくなります。そういう国家の価値基準が由来する根源的な何事かをナショナルアイデンティティと言ったり、国体と言ったり、国柄と言っているわけです。

 つまり、政治と宗教はいずれも「まつりごと」と言われていたように、根源においてはつながっている。「政教分離」とか「祭政分離」などと簡単に言うのは根本的な間違いです。

 そして天皇は価値の源泉たる国柄の「象徴」なのです。だから「天皇に関心がない」というのは、国家にも宗教にも価値にも関心がないと宣言するようなものだと。

 天皇はそれら全てに関わる存在ですからね。何はともあれ日本国民たる者、国家、宗教、価値を考えようとすれば、天皇に関心を持たざるをえないのであると言うべきです。

立憲主義の虚妄を撃つ

── 昨年の「お言葉」以来、天皇論が盛んになっていますが、どのように受け止めていますか。

西部 今上陛下が生前退位のご意向を示されたことをめぐり、少なからぬ人々が立憲主義を唱え、「皇室典範には生前退位の規定がない。立憲主義を貫くならば典範改正が必要だ。然るに特別立法とは何事か」という声がかまびすしく、まあ一種の法律至上主義が広がっているという状況です。しかし天皇や憲法の関係や位置づけに関する本質的な議論が進んでいるとは言い難い。

 そもそも本来の憲法は俗世の根本規範のことですが、決してコンプリート(完結)するものではない。憲法第一条では「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する国民の総意に基づく」と書かれています。そして象徴という言葉は、多かれ少なかれ俗世を超越したものを求める精神性、つまり何ほどか聖なるものへの志向性を含んでいます。

 だから憲法は自己の内部にその枠組みを超え出る「象徴」を置いた瞬間に、自己完結しなくなるんです。憲法というのは俗世の根本規範でありながら、俗世の論理だけでは説明しきれない聖なるものに関わる事柄を、ある種の矛盾として内包しているわけです。……