―― 来たる6月23日には、沖縄県の平和祈念公園で「沖縄全戦没者追悼式」が開催されます。毎年ここには総理大臣や衆議院議長などが参列しています。沖縄ではこの日はどのように受け止められていますか。
國場 6月23日は沖縄戦において日本軍の組織的戦闘が終結した日です。沖縄ではこの日は「慰霊の日」と呼ばれ、学校や役所は休みになります。また、正午には沖縄戦で亡くなった方々のために黙祷が捧げられます。
この日が近づくと、学校では先生たちが沖縄戦の話をします。私の子供の頃は、学校の先生の中にも沖縄戦を経験したという人がいました。そうした先生方が、戦争だけは絶対にやってはいけないということを一生懸命語っていたことを覚えています。
沖縄戦の悲惨さというものは、直接体験した人でないと理解することが難しいと思います。沖縄県民の4人に1人が亡くなり、集団自決のように親が子供を手に掛けるといった悲劇も起こりました。
その背景には、当時の大本営が作成した「帝国陸海軍作戦計画大綱」がありました。ここでは、本土決戦の準備が整うまで、米軍を一日でも長く沖縄に引きつけるために「出血持久戦」を行うと定められていました。
そのため、本来であれば降伏せざるを得ないような状況の中でも、沖縄守備軍は司令部のあった首里(現在の那覇市)から摩文仁(まぶに)や喜屋武(きゃん)(共に現在の糸満市)にまで撤退しつつ戦いを続けました。その間、多くの県民、国民が戦火に巻き込まれ、尊い命を落としたのです。
沖縄戦の傷跡は今なお根深く残っています。例えば、沖縄に残る不発弾の処理には、あと70年から80年かかると言われています。沖縄戦で亡くなった方々の遺骨の収集も終わっていません。また、沖縄は戦争で焼け野原になったため、所有者不明の土地が80・5万平方メートルもあります。
沖縄で地上戦が始まる前にも、沖縄では大変な悲劇がありました。「対馬丸撃沈事件」をご存知ですか? 当時の日本政府は本土決戦が近づく中、沖縄の住民たちを県外へ疎開さ せました。沖縄は食料や兵站に限りがあったため、住民が残っていると戦闘に差し障りがあると考えたからです。
もっとも、疎開はあまりスムーズには進まず、政府としては学童だけでも何とか疎開させようとしていたようです。実際、私の父親や叔母も、小学校低学年の頃は熊本で暮らしていました。
対馬丸もまた、疎開学童ら1788人を乗せて九州へと向かっていました。その航海中に、アメリカの潜水艦ボーフィン号から魚雷攻撃を受けたのです。身元がわかっている方だけでも犠牲者は1418人(2004年現在)、そのうち学童は775人にも上りました。
対馬丸の事件後、救助された人々には箝口令が敷かれました。戦後、対馬丸の生存者たちが沖縄に戻った時、「うちの子供はどうしたのか」と聞かれ、何も答えられず辛い思いをした方もいるそうです。
対馬丸が撃沈したのは1944年8月22日です。私は毎年この日には、那覇市にある対馬丸記念館を訪問しています。そのすぐ側には、対馬丸の犠牲者を弔う「小桜の塔」があります。ここでは遺族の方々が慰霊祭を行っています。
もっとも、現在では遺族の高齢化が進んでいるため、慰霊祭への参加者は年々少なくなっています。以前、私も沖縄の傷痍軍人会の顧問をやっていましたが、こちらも2年前に解散してしまいました。
戦争体験者が少なくなっていく中でどのように後の世代に戦争の悲惨さを伝えていくか、現在を生きる我々に課せられた重大な問題です。
―― 6月23日や8月22日といった日は、沖縄だけでなく日本全体にとって重要なものです。しかし、沖縄以外の地域ではその重要性があまり認識されてい ないように思います。日付をめぐる認識に違いがあるということは、歴史認識に違いがあるということです。歴史認識の違いは、国家統合の危機を招きかねませ ん。今後、歴史認識を共有する上で何をしていくべきだと考えていますか。
國場 皇室の沖縄に対する思いを日本全体で共有するところから始めるべきだと思います。特に、今上陛下は沖縄に対して強い思いを抱いておられると思います。
天皇陛下は対馬丸についても大変なご関心を持っておられます。海底から対馬丸の船体が発見されて間もない1997年12月の誕生日会見では、「私と同じ年代の多くの人々がその中に含まれており、本当に痛ましいことに感じています」と述べておられます。……
以下全文は本誌7月号をご覧ください。