「日本語」を失った日本人
安倍首相は一般的に保守的な政治家だと言われています。しかし、その認識は誤りです。それは、安倍首相が2015年にアメリカ議会で英語で演説したことからも明らかです。もし中国の習近平国家主席や韓国の朴槿恵大統領が日本の国会で日本語で演説すれば、どうなったでしょうか。間違いなく国内から強い反発を受けたはずです。
ところが、安倍首相は英語で演説することに何の後ろめたさも感じておらず、日本国民の多くもそれに違和感を感じていません。要するに、日本人は「日本語」に何の愛着も持っていないということです。小説家の水村美苗氏が『日本語が亡びるとき』(筑摩書房)という本を書いていますが、日本語はまさに存亡の危機に立たされていると言えます。
ここでは、弊誌12月号に掲載した、九州大学准教授の施光恒氏のインタビューを紹介したいと思います。(YN)
言葉の混乱が政治的混乱を引き起こしている
── 「言語を失った民族は滅ぶ」と言われますが、現在、日本語は英語化の脅威に晒されています。『英語化は愚民化』(集英新書)を著した施さんにお話しを伺いたい。
施 まず政治学者である私が、なぜ言葉に関心を持ったかという問題意識から話したいと思います。私は、政治思想的な意味で「保守」の考え方に共感を覚えることが多いのですが、言葉に注目して政治や社会を論じれば、過度に理想主義的、理念的にならず、その意味で保守主義的な、地に足の着いた思考ができるのではないかと考えました。
政治思想的に言えば、啓蒙主義の考え方では、人間の理性や知性を重視します。人間の理性や知性を、すべての物事の出発点として捉えるわけです。そして、社会や国といったものは、人間が自分たちの権利や利害を守るために設計し、作り上げたものであり、今後もより合理的に改変を繰り返していくべきものだと理解します。
対照的に、保守の見方では、人間の社会の文化や伝統、風土、慣習などが、人々の精神や各種能力、理性や知性を育んできたことを強調します。
保守の見方では、文化や伝統といったものは、自我を深部まで形作っているものであり、個々人は簡単にそれを選択したり、改変したりできるものではありません。社会や国も同様です。人為的かつ理知的に考案され、設計されたものとしては捉えない。いにしえからの長きにわたる人々の生活の積み重ねのなかから、自生的に発展し、現在あるようなかたちに育まれてきたという側面を重視します。
私は、保守主義の核心の一つは、自我が、あるいは自分の理性や知性が、自分の生まれ落ちた国の文化や伝統、慣習によって作られているという感覚を重視することだと思うんですね。そこから、謙譲の精神が生まれ、人間の理性や知性は万能ではないという感覚、また国や社会、国制といったものは人間が自由自在に設計したり、改変したりできるものではなく、慎重に扱わなければならないということを理解できるようになる。
こうした人間観は、少々難解に感じられるかもしれませんが、人間の自我を形作る文化や伝統の例として言語を念頭に置けばわかりやすいと思います。例えば、我々日本人であれば、日本語を身に付けて初めて、知的思考が可能になります。日本語が生み出す思考パターンにも拘束されている。そういう事実は理解しやすいですし、そこから我々自身が文化的存在であり、文化共同体の歴史につながっているということが納得できるはずです。
また同時に我々は、文化に一定程度拘束される存在ですが、これも言語を念頭に置くとわかりやすい。外国語を身に付けて母語以上に自由自在に思考したり、行為したりするのは多大なる努力を払ったとしても大部分の人にとってほぼ不可能ですからね。
言語に注目すれば、このように我々は文化や伝統の一部であり、それによって制約も受ける存在であるということが容易にわかります。したがって、言語に注目しながら政治や社会について考えれば、地に足のついた思考が可能になるのではないかと思います。例えば、「グローバル化」について考えるときも、人は所属する国や文化を自由に選択することはなかなか難しいという事実も、言語に着目すれば、すぐに腑に落ちます。……
以下全文は本誌12月号をご覧ください。
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