安倍総理は遮二無二、集団的自衛権行使容認に向けて突っ走っている。同盟国の要請を受ければ、「世界の平和と安定のため」との名目で、たとえ地球の裏側であろうと、我が自衛隊に防衛出動を下令するが如き勢いである。
我が国は、国家の尊厳と国民の安全を守るため、古代より近代に至るまで、死力を尽くし、渾身の力を注いできた。国家、国民、郷土の人々のため、幾多の青年たちが身を挺して国防の任に当たってきたのだ。二十一世紀の今日も、そうあるべし、と考える。だが、同盟国に使嗾され戦争に参加することがあっては、断じてならない。
集団的自衛権問題が惹起され、喧しい議論が起きている今、古代日本の独立を死守した「防人」を想起したい。
『万葉集』巻二十には、天平勝宝七年(七五五)二月に召集された防人たちの歌が数多く収められている。
『万葉集』の編者大伴家持は歌日誌に「天平勝宝七載乙未二月、相替りて筑紫に遣かさるる諸国の防人等の歌」と詞書を記している。兵部省の少輔であり、武勇でも知られた家持は、東国の国府に、防人たちの歌を集めて提出するよう命じた。任を帯びた部領使の役人は防人たちに歌を求めたが、多くは文字を知らぬ農民だったから、口頭で誦したものを役人が記録した。この年に集められた防人の歌は百六十六首、だが実際に『万葉集』に採録されたのは八十四首だった。東国から徴発され、防人として国土防衛の任務に就いた彼らは、その思いを歌に託した。次の歌は勇気凛々、云わば戦意高揚の歌である。
今日よりは顧みなくて大王の醜の御楯と出で立つわれは(下野国)
この一首は、大東亜戦争時に情報局が選定した「愛国百人一首」に選ばれている。防人の歌の中で、こうした勇気凛々の歌は実は少ない。多くは東国農民の父母兄弟を思い、恋人を想う素朴な歌で占められている。
大化改新後、百済の再興を目指す我が国は天智二年(六六三)、唐・新羅の連合軍と白村江で戦い、大敗北を喫した。国家存亡の危機感をもった中大兄皇子(後の天智天皇)は、外敵の侵攻に備え、対馬・壱岐など辺境と、九州の要に位置する筑紫に防人を置くことを決意し、翌年には早くも東国の農民を防人として徴発した。
律令制では二十一歳から六十歳の男子は三年間の防人の軍役につく義務があった。防人は遠江以東の豪族や農民が集められ、総勢二千人余りが任務に就いていた。食糧、武器は自弁であり、防人として召集されても、その間の税金は免除されなかった。農民にとって非情なほどの負担である。任期はしばしば延長され、任務を終えて帰郷する途中、野垂れ死にする者が跡を絶たなかった。家持は農民出身の防人の歌を多く採録した。
防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物念ひもせず(下野国)
わが妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えて世に忘られず(遠江国)
父母が頭かき撫で幸くあれていひし言葉ぜ忘れかねつる(駿河国)
東国から召集された防人の規模は二千人を超えていた。天平一〇年(七三八)の「駿河国正税帳」によれば、この年に東国へ還る防人は、相模二三〇人、安房二七〇人、上総二二三人、常陸二六五人など、総勢一〇八三人であった。この他、遠江、駿河、武蔵、上野、下野からもほぼ同数の防人が徴発されていた。
古代から、対外戦争に狩り出されるのは、関東以北の農民たちである。明治維新後、我が国は日清・日露の両戦役を始めとして、第一次大戦、そして大東亜戦争を戦ったが、近代戦争でも辺境の地と言われた東北・北海道を中心とした農山村から召集された兵隊が黙々とその任務を遂行した。
古来、戦場で敵と戦い、山野に屍を晒すのは、親兄弟・恋人と別れて戦場に馳せ参じる兵士である。決して、戦争指導者ではない。政治家や官僚、軍幹部は時に遁辞を弄して戦争責任を逃れる。これは歴史が語り継いでいることである。
安倍総理は心して、国家の大事を決すべきである。