菅野完 言論弾圧には決して屈しない

弾圧されない言論に価値はない

 権力者は自分たちにとって不都合な言論を抑圧しようとします。これは独裁国家だけでなく民主国家にも言えることです。もっとも、民主国家では露骨に言論弾圧をするわけにはいかないので、税金の問題など、他の形で言論人に圧力をかけることになります。

 これに対して、「日本では中国と違って言論の自由が守られているではないか。現に、自分は言論を抑圧されたことがない」などと主張している人たちがいます。しかし、それは、権力者にとって不都合な言論活動をしていない、つまり、体制迎合的であるがゆえに権力者から相手にされていない、というだけの話です。

 権力者にとって、現実を揺り動かし、現実を変え得るような言論は脅威です。だからこそ、そのような言論は弾圧の対象になるのです。言い換えれば、言論弾圧の対象になる言論こそ本物の言論だということです。現状追従的な言論など、何の価値もありません。

 ここでは、森友学園問題で活躍されている、文筆家の菅野完氏の寄稿を紹介したいと思います。全文は弊誌3月号をご覧ください。菅野氏の著作『日本会議をめぐる四つの対話』(弊社刊)と併せてご一読いただければ幸いです。

東京地裁はこちら側の主張をほぼ認めた

 2017年1月6日、私は、幻冬舎のWEBメディア「幻冬舎プラス」の新年対談企画に招かれていた。対談のお相手は古谷経衡氏。氏の対談相手に私が選ばれた理由は、「チャンネル桜の内実に詳しい古谷氏と、日本会議の内実に詳しい菅野を対談させれば、面白いものが引き出せるに違いない」とのヨミが幻冬舎プラスの編集部にあったからだという。

 果たして、編集部のヨミは当たった。古谷氏は、「なぜ、チャンネル桜なんぞに参加してしまったのか」を虚心坦懐に述べ、私は「日本会議の運動を、古臭いものとして一蹴してはならない理由」を挙げ、双方がもつ保守運動への見解をぶつけ合った。対談は白熱したものとなり、用意されていた時間を大幅に超えた。

 当然のことながら、対談の間は携帯電話の電源を切っている。古谷氏との対談が終わり、幻冬舎社屋から辞去したところで電源を入れると、無数の着信履歴が画面に現れた。尋常な数ではない。しかもどれもこれも見知らぬ番号ばかりだ。「一体何があったのだろう?」と、首をひねった瞬間、着信音が鳴り響く。

 「NHKの司法担当の記者です。今回の仮処分決定について、コメントを頂戴したく……。」

 電話の向こうの記者は、決して興奮しているわけではない。むしろ、落ち着き切った、いや、もっと言えば「申し訳なさそうな」声で尋ねてくる。この声音で、私は初めて、「出版物販売差し止め仮処分申請で、こちら側に不利な命令が出されたのか」と、悟った。

 その時点に至るまで私が東京地裁の下した命令の内容を知らなかったのには訳がある。

 確かに『日本会議の研究』は私の著書だ。だが、仮処分の対象は、書籍の販売そのもの。つまり、東京地裁で検討された出版物販売差し止め仮処分申請の債務者(通常の裁判であれば被告)は、私ではなく、書籍販売を担当する版元ということになる。本件に限っては、あくまでも版元である扶桑社が当事者なのだ。それゆえ私は、東京地裁の命令内容を、直接聞く立場になかった。

 当然、版元の扶桑社は当事者として誰よりも早く、東京地裁の命令内容を聞き及んでいる。だが、扶桑社の担当編集者は、当日私が連絡の付きにくい状態にあることを事前に知っていたため、私への連絡を手控えてくれていた。そのため、「コメントを取ろうとする記者から、販売差し止めについての第一報を聞く」という変則的な事態になったわけだ。

 NHKの記者からのみならず、共同通信、毎日新聞、朝日新聞と、次々とコメントを求める電話が鳴り続ける。扶桑社とは正式な連絡がまだ取れない。みな、実直な記者さんばかりで、先のNHKの記者のように「申し訳なさそう」な声でコメントを求めてくる。その声を聞けば聞くほど、よほど深刻な命令が下ったのかと不安になった。

 ようやく家にたどり着き、扶桑社と正式に連絡を取り合い、地裁の命令文の写しをメールで受け取ったのが19時ごろ。一読して、それまでの不安は吹き飛んだ。確かに、地裁の命令は、拙著第6章の一部の削除を求めてはいるが、債権者(通常の裁判で言えば原告)側が主張する6つの争点のうち、5つまでを退けている。これではほぼ当方の「勝訴」と言っていい。

 扶桑社サイドもまさにその通りの認識であり、同社は当日、「当社の主張がほぼ認められたが、一部削除を求められたことは誠に遺憾」とする談話を出した。事実、地裁の決定文を読めば、そうとしか言いようがない。繰り返すようだが、先方の申し立てた6つの争点のうち5つは、完全に退けられているのだ。わずか一箇所だけが「取材対象者の証言であるとの形式すらとっておらず」等の理由を付して「削除すべし」との命令が下ったに過ぎない。版元の扶桑社も著者である私も、「実質的な勝訴」と捉えるのも無理はなかろう。さらに当然のことながら、東京地裁が「真実相当性に疑義がある」と指摘する削除該当箇所についても、当方は相応の取材を重ね証言も集めて記述したものであり、今後の裁判の中で、地裁命令に反論することができる自信はある。

 こうした背景を踏まえ、私も扶桑社と歩調を合わせ、「決定内容を読んだが、こちら側の主張の通り差し止め請求がほぼ全面的に却下されており、言論の自由の観点からも、安堵している。一箇所だけ削除修正を求められていることは、極めて遺憾。今後の対応は、版元である扶桑社と協議して決めていきたい。」とのコメントを、報道各社に流した。

「墨塗り修正版」を再出版した理由

 コメントが出揃ったところで、各社が一斉にニュース記事を流し始めた。異常なまでの機敏さを見せたのはNHK。東京地裁の命令が下ったわずか3時間後の「ニュース9」で本件を取り上げたのだ。しかし、NHKのニュース原稿は、「地裁の命令文を紹介し、原告側のコメントを長く扱い、扶桑社サイドのコメントは一部だけ流す」との方向性で構成されており、決定文の内容を読んでいる者としては、不公平さを感じるものだった。

 NHKのみならず報道各社の記事は、「6箇所のうち5箇所は退けられた」点には一切触れず、「記述の一部につき、取材の不在や資料の欠如を根拠に地裁が販売停止命令を下した」ことだけを指摘するものばかりであった。これはあまりにも片落ちにすぎるだろう。これではまるで、拙著の全ての記述が根拠や裏付け資料に欠けるものであるかのような印象を与えるではないか。

 当事者としての立場を離れて考えても、やはりこうした報道各社の姿勢は、危ないものに思えた。ことは「出版物記載内容の削除」である。言論の自由に対する直接的な脅威ではないか。本件のそうした側面を抑えず、いたずらに、地裁決定だけを垂れ流し、本件決定が我が国の言論界に与える影響等を考慮せずに一方的な報道を繰り返すことの危険性を、なぜ報道各社は自覚しないのか。

 地裁の決定内容に徹底的に不服を申し立て削除要求に応じず法廷で争い続けるという手段を取らず、即日、「該当箇所をすみ塗りにして再販売する」ことを決断した理由は、まさにここにある。

 おそらく、報道記事を書く側も、ましてやニュース原稿を読むだけの読者・視聴者も、「裁判所が、どの部分を問題視したか」を深く確認もしていなければ、考えてさえいない。であれば、裁判所の命令に従い、該当箇所を墨塗りにして販売することで、「何が問題となったか」を広く世間に告知するにしくはない。裁判所が削除を求めるのは、拙著第6章のうちわずか30数文字。しかもあの本の主張の根幹に関わる部分でもなければ、本質的な議論が展開されている箇所でもない。「何が削除されたか」が明るみになれば、拙著が無根拠であったり資料的裏付けに欠けるものであるとの風評被害は、自然と収まるであろう。また、削除された該当箇所の「真実相当性」も自ずと明らかになるであろう。……