文明地政学協会代表の藤原源太郎氏が、国際社会の緊密化は、特定の文明価値規範で一元化されるのではなく、わが国古来からの世界観である八紘為宇となるべきだとの認識から、「文明地政学」という用語を提唱し、日本文明の基層をなす黒潮文明を論じるにふさわしい人物を求めていたところ、奄美生まれの稲村氏と再会したことから、この連載は始まった。
かつて、「日本語はアルタイ系言語である」という説に対して、村山七郎氏が日本語の起源はアルタイ系言語とオーストロネシア諸語の混合言語に起源するという説を展開した。また、遺伝学、文化人類学の立場から唱えられていた「日本人北方起源説」に対して、柳田国男は日本人の祖先とその文化が、海上の道を通って南方からやってきたと説いた。明治三十一年八月、若き柳田は伊良湖岬に滞在、黒潮に乗って遠い島から流れついた椰子の実を見つめて、南方への憧憬を描いたのだ。
黒潮はトカラの島の付近で太平洋に抜け、大隈の佐多岬をかすめて北東に流れる。足摺岬と室戸岬の沖を経て、紀州の潮岬にぶつかる。そこから尾鷲、熊野の沖を流れ、大王崎を経て東進する。遠州の沖から石廊崎をかすめ、伊豆の島々を抜け、九十九里の浜に寄せ、銚子の犬吠埼辺りから漸く日本列島を離れる。
柳田は、「海上の道」による稲作文化の伝播を唱えただけではなく、琉球の信仰における斎場「御嶽」を神社の原型だと考えた。
柳田とともに、この「海上の道」「黒潮の道」を力説してきたのが折口信夫らであり、現在もこの系譜は谷川健一氏や岡谷公二氏らによって引き継がれている。岡谷氏は、「柳田国男や折口信夫が言うように、沖縄の信仰が古神道の面影を残しているのならば、神社のありようも、かつては御嶽と同じだったはずだ」と力説する。
稲村氏は、柳田以来の「南」への憧憬を引き継いで黒潮ゆかりの地を訪ね歩き、奄美の島人の感性を研ぎ澄ませる。
潜水漁法は黒潮の流れに沿って、沖縄、奄美、九州、瀬戸内海から青森までにひろがっている、宝貝の広がりも黒潮の豊穣に連なっていると説き、「黒潮の民の彩りは鮮やかである。黒潮の流れに西日があたり、あらゆる色彩が表現される豊かさがある。天が黒で大地が黄色の、大陸の天地玄黄の世界とはかけ離れている」と書く(80頁)。
また、黒潮の流れに乗って、種が海を渡り、漂着して根をはやして群落をつくるハマユウ(浜木綿)は、東南アジアを中心として、西は、インドの半島の南部、スリランカを含め、インド洋のココス諸島であり、東はハワイ諸島からクリスマス島を経て、ニューギニア近くの海を越えて、オーストラリアの大陸の東岸から北部の岬の海岸に分布すると説明し、「その北限が日本列島だが、朝鮮半島を含まず、山東半島から上海の揚子江の河口にもない。台湾と海南島にはあり、ベトナムの沿岸に広がる。マレー半島の砂浜にはなじみの植物であるが暹羅湾にはない。支那大陸とは疎遠な黒潮の植物である」と書いている(128頁)。
ここには、「大陸文明とは異質な黒潮文明」という強い意識が込められている。そして、稲村氏は、黒潮の洗う済州島に注目し、次のように述べる。
<済州島には、「堂」という、大木が茂る石垣に囲まれた森があり、女性が祭を司る。沖縄の「御嶽」も珊瑚礁の白砂を撒き、神の依り代であるクバの木などが生い茂る森の中の空き地で、ユタやノロが祭主となり、女人禁制ならぬ男子禁制の儀礼が執り行なわれる。沖縄と済州島の森は相似形だ>(74頁)、<済州島は、黒潮の影響で、半島の文明とは異なり、養豚など南方の島々の習俗と共通するところが多いが、石垣もそのひとつである。草葺きの屋根で、強い風に飛ばないように編み上げた家屋などは、南島の家屋であって、寒冷の半島の建築ではない」>(96頁)
黒潮が洗う島々の文化と伝統に「味と力」を見出そうとする稲村氏の強い思いは、次の言葉に凝縮されている。
<黒潮の民はチュンシマ(他郷)において必ずしも出生島の生活を再現することはしないが、さりとて同化する気風はない。数を超越した孤高の気風の持主で、単なる追従・漂泊の民ではない。干渉せず、多元性を尊重して土地に縛られない。われら日本人も国家と文化と伝統の神髄を、黒潮の民として民族の源流である南方との関わりの中で、そろそろ取りもどしたいものだ>(85頁)
『みち』での連載「黒潮文明論」は続行している。さらなる展開を期待している。
【書評】 黒潮文明論
(編集長 坪内隆彦)