戊辰戦争で薩摩・長州藩に歯向かった諸藩の多くは、その後、悲惨な境遇に追いやられた。明治新政府は「賊軍」に苛烈な処分を課し、たとえば会津藩23万石は没収され、藩主松平家は下北半島に三万石を与えられた。
「当時『寒冷不毛の地』と呼ばれていた下北半島に追いやられるということは流刑同然の厳しい処分であった」(本書27ページ)
生き残った会津藩士らは恐山のふもとの新天地――斗南藩――で、しかし、持ち前の会津魂を発揮し、たくましく生きていく。「ならぬことはならぬのです」で知られる日新館の教えは斗南藩、のちに田名部町となっても受け継がれていった。
田名部町で育った少年たちが目標とした人物こそ、柴五郎大将、会津藩出身で斗南藩に移り、後に陸軍大将にまで上り詰め、義和団事件では二ヶ月に渡る北京籠城戦を成功させた立志伝中の人物である。
大正12年(1923)生まれ、田名部町始まって以来の秀才少年・谷藤徹夫が目指したのも、柴五郎のような「第一等の人物」になることだった。
あいにく武道が得意ではなかった徹夫は中央大学法学部を経て会社員となるが、それでも、柴五郎のように国家国民のためにその能力を使い得ないことに忸怩たる思いを、「いつか、必ず」という思いを抱いていた。
そんな中、太平洋戦争はミッドウェー敗戦、ガダルカナル、ニューギニア敗戦という最悪の局面を迎えつつあった。航空兵の拡充を重視した東条英機は、大卒者を対象に「特別操縦見習士官(特操)」制度を設置し、「大空の決戦へ、学鷲よ、はばたけ!」と呼びかけた。徹夫はこの呼びかけに応え、自ら志願して特操一期生となる。こうして徹夫の人生は大きく、その死へ向かって方向を転換してゆく。
本書はポツダム宣言受諾後の8月19日、ソ連戦車隊へ「妻とともに」特攻した谷藤徹夫の人生を追った渾身のドキュメントである。個人の生活と政治が最も密接に結びつくのが戦争である。本書はそのため、政治状況、戦局の推移も丹念に描くが、一つ一つの政治決定が谷藤徹夫・朝子夫妻をほとんど必然的に特攻へと追い込んでいく様子を描くその筆致は、悲劇としての格調さえ持っている。
もとより、一人の人間の死にはそれなりのドラマがあるし、二万人の死には二万のドラマがある。しかし実際にはある死は忘却され、ある死は語り継がれる。その違いは、語り部の情熱と話術に左右されるところが大きいかもしれない。
谷藤夫妻の物語は戦後長く、忘却と言うよりも封印されてきた。なにしろ、妻との特攻など軍規違反も甚だしく、そもそも特攻命令が下されていないのに勝手に特攻したからである。
幸い、戦友たちの奔走により戦後12年経った昭和32年、戦没者として認定され、昭和42年には世田谷観音に谷藤ら「神州不滅特攻隊」の慰霊碑が建立された。そして今、著者・豊田正義氏という情熱あふれる書き手を得て、まさにその姿を「不滅」のものとして歴史に留めることになった。
ポツダム宣言受諾後、満州はソ連軍によって蹂躙されていた。飛行隊の教官として赴任していた満州で谷藤は敗戦を迎えた。在留日本人たちは「関東軍が必ず助けに来てくれる」と信じて待っていたが、助けは来ない。
そうこうする間にも、ソ連軍は近づき、男は虐殺され、あるいはシベリアに連れ去られ、女は強姦された。もとより、会津魂溢れ、教官として教え子たちを特攻に送り出し、「おれも必ず行く」と約束していた徹夫である。近づく戦車隊に特攻し、少しでもその進軍を食い止め、在留日本人を守る捨石となることにためらいはなかった。そして新妻・朝子も夫と死をともにすることを選び、前代未聞の「妻との特攻」が行われる。
「徹夫の口から特攻の決意を告げられた時、朝子は凛としてこう訴えたのではないだろうか。
『私を特攻に連れて行って下さい。あなたの特攻機に乗せて下さい。私は女ですけど、本土決戦で突撃する覚悟を決めた日本人です。特攻で死ぬことは怖くありません。残されて敵に辱めを受けるくらいなら、敵に突撃して果てることを私は望みます』」(本書299ページ)
戦争は悲惨だと言う。あたり前のことだ。悲惨でない戦争がどこにあるか。人間は愚かだから戦争をするのではない。戦争よりも悲惨な状態を避けるために、賢明にも戦争を選ぶのだ。
【書評】 妻と飛んだ特攻兵
(副編集長 尾崎秀英)