伊勢﨑賢治 南スーダンで自衛隊員が殺し、殺される!

PKOは「国連の戦争」と化している

―― 伊勢﨑さんは国連PKO幹部として、シエラレオネ、東ティモール、アフガンの紛争に関わり、これまで十数万人を武装解除させた実績から、「紛争解決請負人」と称されています。国際紛争に関わってきた立場から、安保法についてお聞きしたいと思います。

伊勢﨑 僕は安保法について非常に懸念しています。特にPKOがメチャクチャな話になっている。安保法案の議論は神学論争の様相を呈して訳のわからないことになっていますが、その根本原因は国際法と憲法の矛盾にあります。

 国連憲章が認めている武力行使は、個別的自衛権と集団的自衛権、そして国連的措置(集団安全保障)です。PKOは国連的措置ですね。これらは全て「交戦権」であり、敵を殺し、敵地を制圧し、軍政を敷く権利まで認めています。一方、日本は憲法9条の関係から、交戦権は持っていないけど、個別的自衛権は持っているということになっています。

 国際法では交戦権と自衛権は同じもので、そもそも交戦権なき武力行使は存在しない。しかし日本では交戦権と自衛権が別物で、交戦権なき武力行使というものを認めている。ここに根本的な矛盾があります。

 政府はこの矛盾を放置したまま、自衛隊にできないことをやらせようとしているから、議論が誤魔化しになる。そこから神学論争が始まって、政府の理屈と自衛隊の現場がどんどん乖離していき、その分だけ自衛隊のリスクが増大しているという状況です。

 そもそも日本は「個別的自衛権」すらフルスペックではないのです。それなのに安倍政権は限定的な個別的自衛権のうえに、さらに限定的な集団的自衛権を上乗せして、余計問題をややこしくしている。

―― 伊勢﨑さんが一番心配していることは何ですか。

伊勢﨑 南スーダンPKOに派遣されている自衛隊です。自衛官が殺し、殺される事態になる危険性が高い。というのも、現在のPKOは国連の戦争になっているからです。

 もともとPKOは内政不干渉の原則を掲げて、国連の中立性を尊重していました。PKF(国連平和維持軍)の主要な任務も停戦合意を監視することで、いざ内戦が勃発したら撤退していた。しかし1994年、ルワンダで内戦が勃発した結果、100日間で100万人が殺されるという大虐殺が起きた。この時、国連は中立性を守るために武力介入せず、100万人を見殺しにしてしまったのです。

 この反省から、「保護する責任」という考え方が出てきました。もともと国民を保護する責任は国家にありますが、それができない場合、国連は中立性を失おうとも、内政干渉になろうとも、武力を行使して国民を保護すべきだという考え方です。

 だからルワンダ以後、PKOの筆頭マンデート(主要任務)は停戦監視ではなく、住民の保護になっています。PKFは中立的な立場から停戦監視をしていますが、いざという時は、武装勢力と戦って住民を保護しなければならない。

 ここで国際法が問題になります。現在の世界には戦争のルールがあります。戦時国際法(国際人道法)というやつですね。具体的にはジュネーブ諸条約(1949)や追加議定書(1977)というものがあります。戦時国際法では、紛争当事者は「交戦主体」という位置づけになって、お互いに「合法的な攻撃目標」として武力を行使できることになっています。

 もともと「交戦主体」としては国家が想定されていました。でも、戦争よりも「内戦」の時代、つまり戦争と同じようなレベルで一般民衆の犠牲が出るような時代を迎え、「交戦主体」の定義を変えざるを得ない状況になってきた。そして、国家より小さい単位の武装集団、まあ、広域暴力団みたいなものでも「交戦主体」と定義するようになってきたのです。

 ルワンダ以後、国連は武装勢力に武力を行使して住民を保護することに決めた。そこで住民保護の場合は、国連と武装勢力が「交戦主体」になるという形で整理されました。戦時国際法は「交戦主体」の枠組みを国家だけではなく、国連や武装勢力にまで広げているのです。

 つまり、住民保護を主要マンデートとするPKOに参加するということは、「国連の戦争」に参戦するということなのです。そして最も住民保護が求められているPKOが南スーダンなのです。……

以下全文は、本誌11月号をご覧ください。