内憂外患、日本を取り巻く状況が厳しくなりつつある。だが、この危難にあたって、われわれが真に守るべきものは何なのか。それは、国家なのか、生命なのか、経済なのか。いや、それ以上に守るべきものを、今から700年余り前の建武三年5月25日、湊川において、楠木正成は示したのではなかったか。
我々は今一度、過去の危難を克服した先人に学び、原点に立ち返らなければならない。その象徴が「大楠公」と称される楠木正成である。「大楠公が現代に生きておられれば、いかに考え戦っていかれるか」を問いなおし、「楠公精神」に学び、その遺志を継ぐべく、平成24年5月25日、乃木神社において楠公祭(世話人:犬塚博英)が執り行われた。御祭礼に先立って行われた佐藤優氏(作家・元外務事務官)の講演を以下に採録する。
思想とは命を懸けるもの
今回、『「不思議」の正成』という、まさに不思議な演題を設定しました。「不思議」という言葉の定義を辞書にあたってみると、たとえば、「一般用語で、人間の思考力。判断力が及ばないこと、またはそのさま」、「思いもかけないこと、またはそのさま」、「常識的・理性的思慮の及ばないこと、またはそのさま」、だいたいこのようなことが書かれています。これを集約し要約すれば、「不思議」とは定義不能で、唯一言いうるとすれば、それは「言語に表現できないものがある。しかし、その言葉には出来ないものの、確実に我々に力を及ぼす力がある。それを不思議と言う」ということです。
そして、『太平記』において、「不思議」という形容詞がもっとも多用されるのが、楠木正成なのです。
私はこれまで二回、楠木正成に出会っています。初めて出会ったのは、外務省でインテリジェンスに携わり、陸軍中野学校について調べているときでした。陸軍中野学校が優れたインテリジェンス機関だったことは周知の通りです。しかしその強みは、諜報技術を教えるというテクニカルな面を超えたところにありました。中野学校の敷地内には神社があり、その祭神こそが楠木正成だったのです。軍隊の学校に神社が併設されているというのは、中野学校が空前絶後でしょう。中野の人々は、諜報技術以上に、楠公精神を叩きこまれた。彼らは「草」として、戸籍も消して、親族とも永遠に連絡を絶って、その遺骨も野ざらしのままに、あるいはシベリアの凍土で朽ち果て、あるいはニューギニアの原生林の肥やしとなることも甘んじて受け入れた。これこそが、「不思議」の感覚なのです。では、楠木正成とは何者だったのでしょうか。
楠木正成は元弘元年(1331)から建武三年(1336)の間に活躍した武士です。その勤皇精神を讃えて、戦前から「大楠公」と称されています。彼は後醍醐帝に仕えますが、そのきっかけは帝がうたた寝したときの夢でした。その中では宴会が開かれており、帝は自分の席を探しています。すると美しい二人の童子―彼らは日光菩薩と月光菩薩の化身です―が、「主上の御座は、南向きのあの立派な大樹の下にございます」と告げました。目を覚ました帝は夢占いをして、「南の木」すなわち「楠」という者を頼るべしという神意だと解釈して探してみると、確かに、楠木正成という武将がいるのでこれを召し上げました。
参上した正成は「勝ち負けは合戦の常でございますから、一度の勝敗だけでお考え下さいませぬように。正成ただ一人生きているとお聞きになれば、帝のご運は最後には必ず開けるとお考えください」と後醍醐帝に申し上げ、忠誠を誓います。この出会いと、即座に正成が忠誠を誓うという物語構成は、現代人から見れば、異常です。しかし、それこそが「不思議」の「不思議」たるゆえんです。
確かに、楠木正成を始めとする「悪党(=時代の枠組みを破壊しかねない、強い力を持った新勢力、とくに流通・商業に財政基盤を置く新興武士)」たちが、既得権益で凝り固まって煮詰まった社会を突破する力として後醍醐帝に協力したという、経済史的な評価があるのも事実です。
しかし、現代の我々の生活に引きつけて考えてみましょう。確かに、我々はお金を稼がなければ生きてはいけない。しかし、お金を貰えれば相手が誰であってもいい、ということにはならない。そこにはプライドであったり、義理と人情が介在したりする。すなわち、経済合理主義を超えた判断というものが出てくる。この、合理主義を超えた感覚、今の例えで言えば、人間と人間との連帯の感覚、こうしたものが、「不思議」なのです。理屈では説明できないものなのです。
これが、後醍醐帝と楠木正成の主従関係の始まりだったのです。すなわち、その出逢いから「不思議」に彩られていたのです。
さて、粉骨砕身して忠節を尽くした正成ですが、足利尊氏が九州から攻め上がってくるのに際して、死地に赴かざるを得なくなってしまいました。正成は足利方を迎撃するために一時比叡山へ撤退することを提案するのですが、それは官軍の面子を潰すという理由で却下され、勝ち目のない戦いを強いられます。彼はだいたい三度まで自分の策を具申しますが、四度目は黙って承服します。このとき彼は「承知しました。討死せよとのご命令でありましょう」と言って、圧倒的劣勢のなか、湊川の戦いに臨むことになりました。
その直前に、正成はまだ幼い息子正行と今生の別れをします。有名な「桜井の別れ」です。父に従って自分も死ぬと言う正行に対して、正成は「お前は生き残って、大人になったら一族郎党を率いて、朝敵と戦え」と遺言します。ここで重要なのは、「戦え」とは言っているけれども、「勝て」とは言っていないことです。
そして今から676年前の5月25日、足利方に敗れた楠木正成は弟正季と共に自害しました。今際の際にあって、彼らは「七生までも人間に生まれ変わり、朝敵を滅ぼさん」といって、死を受け入れました。今生は犬死かもしれないが、それでもいいじゃないかといって、大義に殉じたのです。……
以下全文は本誌7月号をご覧ください。