在特会に象徴されるように、日本では排外主義運動が大きな力を持つようになっている。なぜ人々は排外主義運動に惹かれるのだろうか。その理由として、しばしば次のようなことが言われている。新自由主義によって共同体が崩壊し、経済生活が不安定になった結果、人々は不安や疎外感を抱えるようになった。そのため、彼らは繋がりを求めて排外主義運動に参加し、自らの居場所を得ることで不安や疎外感を解消しようとしている――。このような説明を耳にしたことがある人は多いのではないか。
一見すると、この説明はわかりやすく、腑に落ちる。しかし、あまりにもわかりやす過ぎないだろうか。居場所を得たいというなら、脱原発デモや学生団体「SEALDs」のデモに参加してもいいわけだし、宗教団体に入ってもいいはずだ。実際、新興宗教の信者が増えている理由として、これと同じ説明がなされることがある。敢えて排外主義運動への参加を選択するからには、何か別に確固とした理由があるはずである。
本書は、在特会のメンバーらへの聞き取り調査や社会学的知見に基づき、排外主義運動を分析したものである。著者は、疎外感や不安を排外主義の原因としている代表例として安田浩一氏の『ネットと愛国』を取り上げ、それを批判しつつ、新たな視点を提示している。
著者によると、社会運動研究の立場からすれば、不満は運動に不可欠な要素ではあるが、それは数ある要素の一つにすぎない。もし不満が自然に運動を生み出すならば、社会にはもっと運動が蔓延しているはずである。不満→運動の間には多くの過程が存在しており、その結びつきは一般的に思われているほど強くない(本書50頁)。
また、著者が34名の活動家に聞き取り調査を行ったところ、彼らは学歴は決して低くなく、非正規雇用の人も2名しかいなかった(54頁)。もちろん34名の聞き取り調査をもって断定的なことを言うことはできないが、欧米を中心とした排外主義運動の研究蓄積も踏まえれば、しばしば言われているように階層の低い者たちが排外主義運動に惹きつけられているとは言えない(55頁)。
それでは、排外主義運動に参加する人たちに共通する要素とは何か。著者によると、それは彼らが保守支持層だということである。彼らの多くは排外主義運動と関わりを持つ以前から自民党に投票してきた(63頁)。つまり、もともと保守的なイデオロギーを持っていたからこそ、排外主義運動に惹きつけられたというわけである。これはある意味で何の捻りもない議論だが、排外主義に関する議論ではこれまでイデオロギーの問題に触れられてこなかった(68頁)ため、新鮮でもある。
もっとも、著者の議論にはいくつか問題がある。著者は排外志向の強さによって革新―保守―右翼を区別しているが(71頁)、これはあまりにも乱暴な見方だ。保守や右翼を自任する人たちの中にも、排外主義を嫌悪し批判している人たちは少なからずいる。著者は「そもそも右翼は排外主義と親和的」(222頁)と言っているが、それは著者が排外志向を持つ者を右翼と定義しているからである。つまり、これはトートロジーに過ぎない。排外主義運動の活動家への聞き取り調査を重視するのであれば、保守や右翼の人たちにも聞き取り調査を行うのが知的誠実さというものではないだろうか。
また、著者が採用している聞き取り調査にも問題がある。著者は安田氏がインタビューを行った同じ活動家たちにも再度聞き取り調査を行い、安田氏とは別の結論を導き出した。ということは、また別の人間が同じ活動家たちに聞き取り調査を行えば、さらにまた別の結論が導き出される可能性があるということだ。著者は自らの議論を「排外主義運動のリアルな把握」(67頁)と考えているようだが、これらは権利的に同格のはずである。
もっとも、これは著者自身の問題というよりも、社会学そのものの問題であろう。本書は今後の日本を読み解く上で示唆に富むものだが、評者としては、社会学への疑念を改めて強くしたという意味で得るものが多かった。(副編集長 中村友哉)