1月12日、トルコのイスタンブールでイスラム国(IS)による自爆テロが発生しました。14日にも、インドネシアの首都ジャカルタでISによるテロが起こりました。昨年のパリのテロに続き、今年もISのテロは収束の兆しを見せていません。
一連のテロ事件からもわかるように、テロというものは、いつ誰がどこで実行するかわからないから人々に恐怖を与えるわけです。また、国家権力としても、テロリストがどこにいるかわからなければテロを防ぎようがなく、テロリストに先制攻撃することもできません。
そこから考えると、ISはテロリストとして中途半端です。確かに世界中に散らばったIS関係者たちが、いつどこでテロを実行するかはわかりません。しかし、ISが本拠地としている地域は明らかになっており、既に国際社会から攻撃を受けています。テロリストが「私たちはここにいます」と宣言しているわけですから、国際社会が攻撃するのは当然のことです。
本拠地さえ明らかにしなければ、ISは現在のような攻撃を受けることはなかったはずです。何故彼らは国家を作り、自らを不利な状況に追い込んだのでしょうか。
これを理解するためには視点を変える必要があります。つまり、ISは自ら進んで国家を作ったのではなく、国家を作らざるを得なかったのです。
本誌1月号で作家の佐藤優氏が哲学者の柄谷行人に言及しつつ次のように述べています。
……外部に国家が一つでも存在すれば、その国家の侵略に対抗するために、暴力を背景にした統治機構を持たない社会も国家を作らざるを得ない。だからイスラム国も国家を作らざるを得ない状況になったわけです。
そして、これは柄谷国家論の優れたところなんだけども、消極的な形であれ一旦国家を作ってしまうと、国家の論理が独り歩きし、世界革命の論理が国家の論理に吸収されてしまうんですね。ソ連もナチスとの戦争によって完全に国家主義になってしまった。
イスラム国としては当初は世界革命を起こすつもりだったのだと思います。しかし、他の国家に存在を脅かされたため、国家を作らざるを得なくなった。彼らは追い込まれたから国家を作ったのであり、言い換えれば、彼らは強いから国家を作ったのではなく、弱いから国家を作ったということです。
今後、中東情勢がどのように展開していくか、誰も予想できません。しかし、国際社会がその気になれば、ISを滅ぼすことは簡単です。それは、既にプーチン大統領が示唆しているように、核兵器を使用するということです(2015年12月9日付「共同通信」)。かつて西洋の啓蒙主義が第一次、第二次世界大戦をもたらしたように、合理的な判断のもとに核を使用することが起きかねないほど、中東情勢は混迷を極めています。(YN)