「土人」発言で明らかになった沖縄差別

「土人」は差別語

 大阪府警機動隊員の「土人」発言が物議を醸しています。これに対して、菅官房長官は「不適切な発言で大変残念だ。許すまじきことだ」と不快感を示しました。他方、鶴保庸介沖縄北方相は「『土人である』と言うことが差別であるとは個人的に断定できない」と述べ、「土人」発言を擁護しています。しかし、鶴保氏が「土人」という言葉を個人的にどう考えているかは、事の本質とは何の関係もありません。

 沖縄では鶴保氏の発言に対して反発の声が上がっています。沖縄の人たちが日本政府から差別されているという意識を強めれば、沖縄はますます日本政府から離れていき、独立への道を歩みだしてしまう恐れがあります。

 ここでは弊誌3月号に掲載した連載記事「琉球独立論の論理と心理(上)」を紹介したいと思います。(YN)

琉球独立論の論理と心理(上)

 1月24日に行われた宜野湾市長選挙において、安倍政権の支援を受けた現職の佐喜真淳氏が、翁長県政の支援を受けた新人の志村恵一郎氏を大差で破り再選を果たした。安倍政権や本土メディアの中にはこの結果について、沖縄県民が安倍政権を支持し始めた証拠だと捉える向きもあるようだ。例えば、島尻安伊子・沖縄北方担当相は「サイレント・マジョリティーの存在を感じた選挙だった」と述べている。

 しかし、この認識は完全に間違っている。琉球新報と毎日新聞、共同通信が実施した宜野湾市長選の出口調査によると、普天間飛行場の辺野古への移設を推進する政府の姿勢を「支持しない」と答えたのは54・9%、「支持する」と答えたのは33・8%だった(1月25日付琉球新報)。つまり、現職に投票した宜野湾市民の中にも辺野古新基地建設に反対する人が多くいたということだ。

 それ故、安倍政権が沖縄県民の信任を得たと勘違いして新基地建設を強行すれば、宜野湾市民も含め沖縄県民は強く反発するだろう。そして、琉球民族としての自覚が強まり、独立に向けて本格的に動き出すだろう。実際、既に沖縄からはいくつもの独立論が提起されている。

 本稿ではその中でも龍谷大学教授・松島泰勝の琉球独立論を見ていきたい。それは、松島が「琉球民族独立総合研究学会」の共同代表を務めたり、琉球独立に関する著書を何冊も出版するなど、精力的に琉球独立に取り組んでいるからだ。特に松島の著書『琉球独立論』(バジリコ)は、思想家の柄谷行人が朝日新聞の書評で取り上げたため、本土でも注目を集めていると思われる(出版から3か月弱で3刷)。

 松島の琉球独立論を検討する前に述べておきたいことがある。琉球独立論と聞くと、保守派の中にはすぐに「中国の手先だ」といった反応を示す人がいる。確かに琉球独立派の中には中国に使嗾されている者もいるだろう。しかし、松島についてはそれは当てはまらない。松島は『琉球独立論』で、中国を厳しく批判している。

 《かつてアジアのグローバルスタンダードであった中国と現在の覇権国家中国は、まったく異なった国家です。内に向かっては自国民の自由な言論を封殺し、ウィグル、チベットで侵略・虐殺を行い、漢民族を組織立って大量に移住させ支配下に置き圧政を敷く。外に向かっては、軍事力と経済力を背景に、フィリピンやベトナム、台湾に圧力を加える。そのような国の支配下に、独立した琉球が入ろうとするはずもありません。また、中国が核心的利益と称し、併合を公言している台湾との連帯を掲げる私たちの対中国観は明白です。》(169~170頁)

 保守派はいい加減、琉球独立論が中国に唆されたものだとする皮相的な見方はやめた方がいい。琉球独立派の多くは自らの意思で独立運動を展開しているのである。

 さて、松島は『琉球独立論』で、琉球人は日本人とは異なる「民族」だと主張している。本連載でもこれまで「民族」という言葉を定義をせずに使用してきたが、松島は民族をどのように捉えているのだろうか。松島はこう述べている。

 《「民族」という概念は、使用されるケースによってその意味が微妙に異なる場合が往々にしてありますが、本書ではDNAを基準とした「人種」とは峻別し、一定の年代において風土、文化、言語などを共有する、つまり歴史を共有する共同体と定義しています。》(10頁)

 松島はここで民族と人種を区別している。しかし、松島の定義する民族と人種は、それほど明確に区別できるものだろうか。

 例えば、祖父母の世代に日本本土に移住した沖縄三世について考えてみよう。彼らが沖縄一世の祖父母からDNAを受け継いでいることは間違いない。しかし、彼らは「歴史を共有する共同体」に属していると言えるだろうか。

 彼らは日本本土で生まれ育っているため、沖縄の伝統や文化から距離ができてしまっている可能性がある。琉球語も話せないかもしれない。沖縄戦についても、沖縄二世ほどには聞かされていない場合もあるだろう。「いや、彼らは共同体の一員の孫なのだから、共同体の一員だ」と言うなら、それはむしろDNAを基準としていると言えないだろうか。要するに、何をもって「歴史を共有する」とするかが不明瞭なのだ。
 
 もっとも、松島が民族をこのように定義したのには理由があると思う。恐らく、日本本土で強くなっている排外主義に絡み取られることを警戒したのだろう。次回はこの点を詳しく見ていきたい。(文中敬称略)