【書評】 自分をみつめる禅問答

 山中伸弥氏がiPS細胞研究によってノーベル生理学賞・医学賞を受賞した。この研究は再生医療の可能性を一段と高めるもので、将来的には体のどんな部品でも作り出すことができるようになるのだという。この研究について、『五体不満足』で知られる作家の乙武洋匡氏はツイッター上で「iPS細胞で手足を作れても……いらない」とコメントした。どうやら乙武氏には自分というものがよく見えているらしい。
 自己というものは自己を取り巻く無数の関係性の中で結び合わされていくものであって、手足を得ることは五体不満足として紡いできたこれまでの関係性を根源から変更すること、極端に言えば、自己が自己でなくなることだと直感しているのだろう。
 人類がいかに不老不死へと近づこうと、あるいは、死を先延ばしにしようとも、結局、人間は死へとかかわりゆく存在であり、老病死の苦しみが消え失せるということはない。犬猫と違って人間は自らの老病死を予見する能力があるから、実際に病に苦しまずとも、やがて来るべき老病死を恐れ、避けたいと願う。願うが、決して避けられない。
 人生は思い通りにならない事だらけだが、その究極は生まれること、死ぬことである。そこで人間は自己の生を見つめ、その意味を知ろうと欲する。だがまたしてもその欲望も満たされることはない。
 そもそも自己というものが追えば追うほど遠ざかる逃げ水のようなもので、自己を問いだすとこれまで確固として存在しているように思われた自己というものがわからなくなってくる。自己の存在根拠が見えなくなってくる。
 自己を規定する要因の一つは社会的関係性である。会社においては役員であったり、娘に対しては父親であったり、地域社会においては消防団員であったり、さまざまな関わり方の中で自らのあり方が規定されていく。
 だが、非正規雇用の増加、一流企業と思われていた会社の倒産危機、リストラという現代日本においては、この社会的関係性による自己規定というものは不安定・希薄化せざるをえず、自己の存在根拠が揺らいだ一部の人間は、一足飛びにいきなり国家と自己とを同一視させ、過激な排外主義に走っているようである。
 本来、資本の論理とは異なる次元で人間に存在根拠を提供してくれるのが宗教団体というものなのだが、オウム事件によって露呈されたのは、既存の宗教団体、とりわけ仏教が、檀家制度にあぐらをかいているうちに、本来期待されている役目を果たせていなかったということだった。
 本書の著者は、二十年の永平寺(福井県)での修行を終え、縁あって恐山菩提寺(青森県)で住職代理を務める曹洞宗の僧侶である。それと同時に、既存のいわゆる葬式仏教を批判し、苦を滅するという原始仏教の原点に回帰して、それを積極的に発信している、現在の仏教界の中ではやや異端的僧侶でもある。
 本書は2004年に佼成出版社から刊行された『「問い」から始まる仏教――「私」を探る自己との対話』を改題し、2011年12月に角川文庫に収めたものである。その「あとがき」には、3・11後に被災地から恐山を訪れた参拝者との対話が記されている。

  「こんな年寄りが生き残ってしまって、若い者が死んでしまいました。なぜでしょうね、和尚さん」
 そういう人はみな、子供や孫を失っていた。
 この「問い」には答えがない。答えてはいけない。(中略)
 「問い」を「問い」のままに、それでも向き合い続ける以外に、とるべき道はないのだ。

 仏教解説書は無数にあり、中には道徳の教科書に毛が生えたような、訳知り顔の「答え」を与える書物もある。だが本書は凡百のありふれた仏教の説教ではなく、徹底的に読者を自己をめぐる「問い」へと追い込んでゆく。そしてその「答え」はない。
 「問い」を問い続けること、そして著者が「非己」と呼ぶ、自己の存在根拠の分かりがたさに徹底的に向き合うことを促すのである。
 欲望を前提とする資本主義が世界的に破綻に瀕しているが、この時にあたって、ゴータマ・シッダルタが実践した欲望と自己への問いをわれわれも実践することは、戦後日本人のあり方を根底から問いなおすことにも通じる。
 問答調で書かれて読みやすい本書は「問い」を始めるためには絶好の入り口である。(副編集長 尾崎秀英)