野中広務「沖縄の人々にお詫びしたい」

沖縄を考えることは、日本を考えることだ

 野中広務氏にはインタビューやシンポジウムの場で多くのことを学ばせていただきました。謹んで哀悼の意を表します。ここでは弊誌に掲載した、シンポジウム「沖縄を考えることは、日本を考えることだ」における野中氏の発言を紹介いたします。

私は政治家として沖縄の傷を癒すことができなかった

 私が沖縄を初訪問したのは、本土復帰前の昭和37年でした。私は京都府園部町長として、京都府の慰霊碑を建立する候補地を選びに来たのです。

 大半の都道府県は沖縄戦が終結した摩文仁を候補地にしていましたが、私は沖縄戦最大の激戦地で、京都出身の日本兵2404名が命を落とした宜野湾の嘉数にすべきだと考えていました。視察の際、タクシーが宜野湾に入るや否や、運転手の方がハンドルにしがみついて泣き崩れました。

 「あの桑畑の向こうで、あそこで妹が殺されたんです。米軍にじゃないんです」

 彼はその場で一時間以上も嗚咽し続けたのです。私はそれから、沖縄のために働くと決意したのです。

 小渕総理も沖縄に対して並々ならぬ想いをお持ちでした。日本でサミットが開催すると決まった時、8か所の候補地がありました。沖縄はそのビリの候補地でした。

 小渕総理は官房長官の私に「何とか沖縄でやりたい。自分は学生の頃から沖縄の人々と触れ合って、沖縄の本当の痛みや苦しみを知っているんだ」と決意を明らかにされました。

 それからアメリカと交渉し、最終的にはクリントン大統領とフォーリー駐日大使が徹夜で議論して、遂に米軍基地の多い沖縄を世界の首脳に見せる決意を固めたのです。しかし小渕総理は念願の沖縄サミット開催を見ることなく、亡くなってしまいました。

 傷ついた人々の想いを忘れて政治はできない、しかし、沖縄は今日まで戦後の大きな傷を抱えたまま長い苦労をされている、それにもかかわらず私は政治家として沖縄の傷を癒すことができなかった。生きているうちに沖縄の人々にお詫びしたい。