いま五・一五事件から何を学ぶべきか

歴史の反復

 海軍の青年将校らが時の総理大臣・犬養毅を殺害した五・一五事件から80年以上が経過しました。最近の日本は年々当時の時代状況に近づいているように思います。もちろん違いもあります。当時の日本社会では農村が重要な機能を果たしていましたが、いまの日本では農村は衰退の一途を辿っています。また、当時は若年人口が急増していましたが、いまは少子化に直面しています。歴史は反復しますが、全く同じように反復するわけではありません。

 今日のわれわれは五・一五事件から何を学ぶべきなのか。この日に改めて考えてみたいと思います。ここでは弊誌2012年5月号に掲載した、五・一五事件に関する論考「なぜ『青年』たちは決起したのか」を紹介したいと思います。全文は下記のリンク先よりご覧ください。




なぜ「青年」だったのか

 五・一五事件は「青年」によって決行された維新運動であった。青年将校・三上卓たちが首相官邸を襲撃して犬養毅を殺害し、橘孝三郎率いる愛郷塾の農村青年たちが変電所を襲って東京の停電を図った。

 事件の数年前に三上卓が「青年日本の歌」を創作したことからもわかるように、彼らは「青年」を自任し、「青年日本」を理想としていた。

 なぜ、それは「壮年」でも「老年」でもなく「青年」だったのか。「青年」とはいったい何を意味するのか。そこに、五・一五事件を読み解くためのカギがある。

 明治以来、日本の総人口は増加の一途をたどり、昭和時代に入ると六千万人を突破した。合計特殊出生率は5・0と高い値を示し、新生児や乳幼児の死亡数も低下したため、若年層が急増していた。

 人口の増加は社会的競争の激化を招く。特に、三上たちの属していた海軍は、ワシントン条約により戦艦などが制限されたため、海軍兵学校の合格数が削減され、競争はさらに激しいものとなっていた。彼らは軍縮の申し子だったのである(福田和也『昭和天皇』)。

 厳しい競争を勝ち抜いた若き軍人たちは熱気を帯びていた。彼らは国を変えなければならないという強い使命感を持っていた。

 当時、日本経済は世界恐慌のあおりをうけ、生糸などが暴落したため、農民の生活は窮乏を極めていた。重い小作料に苦しむ農村では、娘の身売りが日常的なものとなった。それにもかかわらず、政治家たちは不毛な権力闘争に明け暮れ、財閥や軍部と癒着して私利私欲にまみれていた。

 若き軍人たちは、そうした政治家や財閥、軍人が自分たちの上に居座っていることに強い不満を覚えた。実際、三上は教えを乞うために軍の上官のもとを訪れたが、何一つ教えられるところがなかったため、憤りの余り自殺し損なったこともあるという(花房東洋『「青年日本の歌」と三上卓』)。

 「青年」たちの熱気は、あたかもビン内の空気の膨張がそのフタを飛ばすがごとく、上の世代へと向けられた。殺害された犬養毅が76歳と高齢であったのは象徴的である。

 このように、五・一五事件には世代間闘争という側面があった。しかし、それで終わるならば古今東西を問わずよくある話である。もう一歩事件の本質へと踏み込む必要がある。