大城立裕 琉球人の想いを大和人へ

1967年に沖縄初の芥川賞を受賞して以来、85歳の現在でも旺盛に執筆を続ける小説家・大城立裕氏。本年6月には新潮社から短篇集『普天間よ』が、そして7月、弊社から『真北風が吹けば――琉球組踊 続十番』が上梓された。沖縄をテーマとしながらも、安易な反戦イデオロギーとは一線を画す大城氏の仕事は、文学という形で琉球の歴史と伝統に生命を与え続け、一方で、ヤマトに琉球の想いを届けんとするものである。那覇市首里の御自宅に大城氏を訪ねた。

創造がなければ伝統は死ぬ

―― 前作『花の幻 琉球組踊十番』に続いて、今回『続十番』が出版された。玉城朝薫が五番を作って以来、多くの人々が組踊を創作してきたが、一人で二十番まで作られたのは大城氏が初めてだ。また、その扱う題材も古琉球時代だけでなく、明治政府による琉球処分、戦争、そして戦後と、大城氏でなければ書けないものだ。

 まず、本土の人間にはあまり馴染みがない「組踊」について伺いたい。

大城 組踊とは音楽・舞踊とセリフによる琉球の伝統的総合芸術だ。そのセリフのリズムはサンパチロクと呼ばれ、ヤマトの民族的リズムが5・7・5・7・7なのに対し、琉球では8・8・8・6の音律を持つ。このサンパチロクのリズムにあわせて、しかも琉球の言葉でドラマを作るのが組踊の新作を作るということだ。

 かつて子供の頃、農村の祭りでは、村芝居で組踊が上演されていた。だから、私の世代の人間は組踊、そしてサンパチロクのリズムが身についている。しかしその琉球独自の伝統も時代の波と共に薄れつつある。

 7年前に国立劇場おきなわができたが、それまで、私は文化庁の企画委員をつとめた。この国立劇場は琉球の伝統芸能の維持継承を目的としていたのだが、私は、古いものを上演しているだけでは駄目だ、創造がなければ伝統は死んでしまう、と思った。現代の琉球人による新しい組踊がなければならない。そして当時、辺りを見回したときに、作劇法も知っていて、サンパチロクが身に叩き込まれている私以外にその役目を果たせそうな人間は見当たらなかったので、私は「新五番を書く」と友人知人に触れ回った。そうして自分を追い込んだ。ある後輩は「新しい組踊を標準語で書くつもりなのか」と尋ねてきた。お前にウチナーグチでサンパチロクを書けるのか、という意味だ。まさに、サンパチロクに嵌るよう、言葉を探すという作業が新作組踊の難しさだった。だが結局、五番どころか十番まで書き上げ(『花の幻』カモミール社)、その多くがすでに上演された。

 そして今回、新たに十番を書き上げたわけだ。

―― 続十番である『真北風が吹けば』には、奄美を舞台にしたものもある。だが、奄美の言葉と沖縄本島の言葉は微妙に異なるし、その歴史自体も沖縄本島と一体のものではない。いわば、琉球王朝の歴史と伝統の中に、奄美という周縁文化を包摂しようという意欲作だ。

大城 この奄美を舞台にした「いとしや、ケンムン」は、『真北風が吹けば』の中でも、最後まで上演が難しい作品になるのではないか。何よりも、奄美の人々がこの作品をどう受け止めるかが重要だ。

 奄美は琉球文化圏内にあるとはいえ、沖縄本島と一体の歴史を共有しているわけではない。むしろ、ヤマトでも琉球でもない、奄美だという独自意識が強い。だが同時に奄美には民衆文化、民謡はあっても、古典芸能はない。古典芸能は士族階級の成立によって初めて可能になるが、奄美にはその士族時代がなかったからだ。民謡は郷土の魂を伝えるとはいえ、厳密な形式がない。だから継承と共にわずかずつ違いが生まれ、やがて原型と大きくかけ離れるということもある。古典芸能では形式が定まっているので、原初の姿を後世にそのまま伝えることができる。今回、奄美を舞台に組踊を書いたのは、奄美という文化に、揺るぎない古典芸能の形式を与える試みだった。設定や方言でかなり難しいところもあったが、奄美の人々の評価を待ちたい。

捨石にされた沖縄

―― 琉球は奄美に対しては琉球文化圏に包みこんでいく側だが、ヤマトに対しては、包み込まれる側だ。だがそこには解消しがたい矛盾対立が厳然としてある。

大城 ヤマトとの関わりは古いが、特に近代以降、不幸なものとなっている。琉球処分という軍隊による制圧以来、琉球とヤマトとの関わりは、軍事的な関心のみが中心となっていたと言える。そこには琉球という異質な文化を包摂しようという文化的な視座が欠けていた。

 琉球はそれでも、ヤマトに適応しようとしてきた。過剰適応と言ってもいいほどで、戦前にはある知識人が「くしゃみをするときにもヤマトグチでくしゃみをしろ」とさえ言ったほどだ。涙ぐましいほどに、琉球人は日本人になろうとしたのだ。しかし、それは琉球人であることをやめるということではなかった。

 私は昭和13年に中学に入学したが、その5年間、「日本人として一人前になれ、それと同時に、琉球人としての誇りを失うな」と教えられた。一見矛盾するようだが、自らの依って立つ歴史と文化への誇りがなければ、日本人にさえなれないのだ。

 沖縄は日本で唯一地上戦が行われた土地だが、これは、一般市民の生活の場が戦場になるという意味だ。その意味で、琉球人が戦争について抱く想いは、軍人の戦いである硫黄島とも、本土の空襲での被災ともまた違ったもので、沖縄独特の悲しみの記憶だ。

 ひめゆり部隊は有名だが、ぜひ訪ねて欲しいのは首里城の近くにある一中健児之塔(形は碑)と、その付属の養秀会館だ。14歳から17歳のまだ幼い子供たちが兵士として戦い、死んでいった鉄血勤皇隊の記念展示館だ。彼らは天皇陛下のために立派に戦うことで、日本人として認められる、そういう想いで戦い、死んでいった。

―― 養秀会館には当時の英語の教科書が展示されているが、その表紙は剥がされていた。戦時中、英語の本を持っていると「敵のスパイ」と疑われたからだという。ヤマトの人間は戦時中でも琉球人を同胞として信頼していなかった。

大城 沖縄で自決した大田海軍中将は、ヤマトから琉球への差別、そして琉球人が懸命に誇りを持って戦い、日本人になろうとしていたことをよく理解していたのではないか。大田中将の最後の電文、「沖縄県民斯ク戦ヘリ 後世格別ノ御配慮ヲ」というものは、そうした琉球人の想いを本土の人間は汲みとってほしいというメッセージではないかと思う。

 一方、琉球側には、日本人になろうという意志と同時に、捨石にされた、という想いもあった。大本営が地図を睨みながら、本土決戦を避けるため、なんとしても沖縄で敵軍をくい止める、そういう作戦を立てたのだが、そこには同じ日本人が住む場を戦場にすることへのためらいもなかった。琉球人が「捨てられた」と思うのも無理はないだろう。

 だが、真の意味で琉球がヤマトへの信頼を失ったのは、1951年のサンフランシスコ平和条約だ。

 終戦から71年までのアメリカ占領下の沖縄を、私は擬似独立国と呼んでいるが、51年の平和条約まで、アメリカでも日本でもない状態で、将来の可能性は三つひらけていた。第一は日本に復帰すること、第二はアメリカの信託統治下に入ること、第三は沖縄独立だ。

 琉球人として最善なのは独立なのだろうが、琉球処分以来の近代70年あまりの間に、琉球は独立国家としての理念も、国家運営のノウハウも失ってしまっていた。理念として独立は美しいが、もはや現実的には不可能だった。

 すると、アメリカか、日本かという選択になるが、文化的歴史的にもアメリカよりも日本のほうに馴染みがある。それに、琉球人は一人前の日本人たらんとして、文字通り血を流してきたのだ。

 ところが、ここでひどい裏切りが為された。1951年のサンフランシスコ平和条約において、日本は沖縄をアメリカへ差し出し、捨石にし、生贄にして、自分たちだけが独立を勝ちとった。戦争において本土決戦の堤防として犠牲にされ、そして今度は日本独立の捨石にされた。琉球は二重の犠牲を強いられた。

―― その後、沖縄では本土復帰運動が起こる。

大城 本土復帰運動の中心には学校教員という知識層がいた。この当時の教員たちは戦前の沖縄県師範学校出身者たちで、彼らは自分たちの習熟したシステムが維持されることを望んだのだ。つまり日本が欲しかったというよりも文部省という自分たちが仕事しやすい指導機関を求めての運動だと言える。だから私は当時、この教員運動に対して「学童を政治に使うな」と批判した。運動には、本土復帰がそもそも良いことなのか、という問いかけはなかった。

 もちろん、教員でなくとも本土復帰を望んだ運動はあったが、それはアメリカ占領下における治外法権状態が、本土に復帰すれば解消されるという一縷の望みをかけてのものだった。アメリカ占領下の1955年に「由美子ちゃん事件」という、六歳の女児が米兵に暴行され殺される事件が起きた。そしてこの犯人の裁判は結局うやむやのうちに終わらせられてしまった。

 日本には憲法があり、そこには基本的人権が保障されている。琉球人もこの基本的人権を望み、だからこそ本土復帰を望んだ。もちろん本土に復帰すれば良い事だけではないかもしれない、しかし、治外法権という最低限の人権さえ保障されていない状態よりはましだろうということだ。

 だが1972年に本土に復帰してみると、当時の佐藤栄作首相によって三度目の裏切りが為された。本土の安全保障のための米軍基地を沖縄に押し付けてしまったのだ。そして肝心要の治外法権については、日米地位協定という形で、相変わらずアメリカ兵は治外法権のままになっている。

 沖縄には基地だけが残された。その後ヤマトは冷戦下、安全保障をアメリカに、すなわち沖縄の基地に委ねて、自分たちは高度経済成長を謳歌して、バブルを迎え、それが弾けると今度は不況問題に気を取られて、その間、沖縄は顧みられることがなかった。米兵は相変わらず犯罪事件を起こし、普天間でヘリコプターが墜落しても、まるで国外のことのように対応してきた。沖縄は忘却されていた。

忘却され続ける沖縄

―― 一昨年、民主党の鳩山党首が普天間移設を掲げて政権交代をしたが、結局その公約は反故にされ、さらに今年、3・11大震災で日本中の関心は東北に向いており、また沖縄は、普天間問題は忘却されようとしている。

大城 沖縄の問題は、戦争だけではない。戦争の悲惨な話というのは同情を買いやすいし、センチメンタルに戦争を語るだけで沖縄問題について語ったような気になってしまうのが危ういところだ。

 沖縄と本土との歴史、幾度も裏切られて現在に至る歴史の視座が必要だ。辺野古に飛行場移設をするという問題も、美しい海を汚していいのかという以上に、ヤマトよ、まだ沖縄に基地を押し付けようというのか、まだ我々を裏切ろうというのか、という想いが根底にあるのだ。

 本土の人たちが沖縄を犠牲にして高度成長を謳歌した、という自覚があれば、いまの沖縄基地の行き詰まりを、他人ごとにしておれないはずだ。それは、モラルの問題だ。本土のどの県でも肩代わりを引き受けたくはないはずで、ここは政府が、「独立」以来の政府の責任をモラルで意識して、本土の県の説得に当たるべきだろう。

 日本の安全保障のために基地が必要です、という軍事的言葉は、そこにモラルがないから沖縄の心に伝わらない。

―― 沖縄、戦争、基地、という言葉は芋づる式に出てきて、ほとんど通俗化している。しかし、6月に出された短篇集『普天間よ』(新潮社)では、大城さんの分身とも見える「山城先生」に「そういう通俗こそが重要だ」と語らせている。戦争の記憶も、普天間問題も、軍事の言葉で要約されてしまうと「ああ、また基地問題か」という通俗的な対応で終わってしまう。要約されてはすべてが虚しくなり、現実が現実味を失う。通俗化された言葉を乗り越えて、本土の人間が沖縄と語る言葉はあるだろうか。

大城 ないように見えても、探ればきっと見つかると考えたい。琉球とヤマトの関係は軍事的関心でしか結びついてこなかった。それを超える言葉を探すのは、あなた方の世代の仕事となる。

 未来の世代のために、シジュフォスの神話を伝えておきたい。フランスの作家カミュが細かく哲学的に解釈した本を書いているが、カミュとは逆の解釈をするのだ。

 シジュフォスという男が神から罰を受けた。彼は山の上から大きな岩が転がってくるのを押しとどめ、それを力を込めて押しとどめる。いくら押しとどめてもまた落ちてくる。この無為徒労の作業を、永遠に続けなければいけない、という話だ。

 これは絶望的な物語だが、私は、いくら押しとどめても落ちてくるのではなく、落ちても落ちても押し上げる、と解釈したい。

 今後も沖縄と本土の間の軋轢は容易に解消されることはないだろう。さらに、巨大になった中国まで絡んでくると、さらに問題は複雑になる。普天間は忘却され、岩は転げ落ちる。だが、それでもなお、押し上げるのだ。押し上げ続けるのだ。カミュは絶望の物語として捉えたが、それを希望の物語として捉えなおすことだ。

―― 普天間基地のすぐ近くに、普天間大権現(普天満宮)がある。15世紀ごろに熊野権現を合祀したものだという。日本の中に琉球があり、琉球の中に日本がある象徴的なものとして参拝した。そして一方で、すぐ側に基地があり、これはアメリカの中に日本があり、日本の中にアメリカがある象徴でもある。先ほど、近代70年の間に琉球として独立する理念もノウハウも失ったとおっしゃったが、そこに今の日本の姿そのものが重なって見える。

大城 そういうこともあるかもしれない。私は文学者だから、政治的なことは言わない。ただ、私はこれからも言葉を探していく。あなた方にもそうして欲しいと思う。通俗から出発して、さらに掘り下げた言葉にこそ、誇り、あるいは魂は宿るからだ。誇りを失わないこと、これが大事だ。私は琉球の誇りのために、あなた方はヤマトの誇りのために、言葉を探し続けましょう、シジュフォスのように。